皆さん、おはようございますこんにちはこんばんわ初めましてお久しぶり今日もお暑いですね今日も寒いですね(以下略)
さて、6.0が来て現在6.1、そしてもうじき6.2アップデートを迎えようともしているFF14(その前にメジャーパッチ以外のアプデがあるかもですが)。
「暁月のフィナーレ」のメインシナリオ、如何だったでしょうか?私としては前パッケージの「漆黒のヴィランズ」よりも印象に残ったシナリオとなりました。どちらも名シナリオであると私は思うのですけどね。
そのメインシナリオ「暁月のフィナーレ」ですが、私的に色々と思ったことがあるので、登場人物順に考察とか思ったことを考察しながら振り返っていきたいと思います。
もし読者のヒカセンの方も、「あー、こういうこと私も思った!」とか「へえー、こんな考えもあるんだ」とか、そんなことより零式消化零式消化とか、絶竜詩ムズすぎだろワロタとか全く関係のないこと考えてる方がおれば幸いです。
なんか書いてみた後になって、最終的には考察というよりは振り返りみたいな感じになってるけど気にしない!!!!!
ではでは、長くなりましたが、GO~。
○主人公(光の戦士→冒険者)
みんなご存知&みんな大好きヒカセン。
今回、「暁月のフィナーレ」においては、ヒカセンは大きなターニングポイントを迎えます。
ヒカセンはそれまでのシナリオにおいて、「救世の英雄」として振る舞ってきました。
理由は単純明快、周囲からそう求められたからです。「新生エオルゼア」からの活躍を振り返れば、ヒカセンはお人好しで困っている人がいたら助けずにはいられない性格のおかげで注目を集め、更に蛮神イフリートと交戦して撃破したことを皮切りに、光の加護を持った「光の戦士」である=蛮神を人の身で倒すことができる存在であることが判明した後の周囲からのヒカセンのことを見る目は、完全に英雄像そのものでした。
それから長きに渡ってヒカセンは「英雄」でした。
しかしそのことを心配するような台詞が、ちょくちょくメインクエストに登場していたりします。
そもそも、「新生エオルゼア」の開始時点でのヒカセンは「冒険者」でした。それは特別な理由があるわけではなく、ただ単純に、「謎や困難に挑む冒険が楽しくて好きだったから」に過ぎないのです。
つまり、ヒカセンは長らく「英雄」でしたが、本質的には「冒険者」であり、心の中ではそうありたいと願う描写で出てきます。
暗黒騎士のジョブクエストでは、ヒカセンの暗い心の部分が露わになる描写があります。
ネタバレしてしまうと、ヒカセンが偶然居合わせた、フレイという暗黒騎士との物語なのですが、実はフレイは「当初は既に故人だったが、暗黒騎士のクリスタルがヒカセンからエーテルの一部を取り込み、更に心の一部も反映させた」存在でした。
ヒカセンの心の影となったフレイは語ります。
「やっと……英雄となって遠ざかっていた君に、僕と向き合ってもらえる機会を得たんです。」
「……ですが、奪ったエーテルが尽きてしまえば、この体を動かすことはできなくなり、僕は消える。あるいは、君の心の闇に戻されるのかもしれない……」
「その前に、知ってほしい思いがあった。君に誰よりも僕を選んでほしかった。」
「なのに、こいつらが……みんなが邪魔をする……!」
「僕は「フレイ」の記憶を使って君に暗黒剣を教え、儀式と称して、僕の一部を君に還してきました。けれどついに君は、あの「声」の主に気付けませんでしたね。」
「あれは僕の……君自身の悲鳴です。」
「心の底から憐れんで、慈しんでほしかったけれど……もう、時間切れだ。」
「あの悲鳴の主を救うと、君は言った。だったら、ねえ……今度こそ僕を見てよ……!」
(中略、戦闘後)
「ああ……。終わるのか……これで…………。」
「君を、こんなにも強くしてしまったのが、僕の声だったなら……ひどい皮肉ですね……。」
「その強さは、君を何度でも英雄にして、苦しみをもたらす。いつか、その命まで奪うかもしれないのに……。」
暗黒騎士のジョブクエストの中で、フレイから渡された「心の声」は、「辛い、苦しい」「どうして自分がこんな目に遭わなくてはならないのか」といった想いがありました。
そしてそれは、蛮神と一人戦わなくてはならなかった時や、人々の前に立ち、困っている人々の代わりに戦わなくてならなかった時の想いであることが推察できます。
ヒカセンは「英雄」である前に一人の人間です。当たり前だと思うかもしれません。
しかしエオルゼアに生き、ヒカセンを英雄と称える多くの人々は、心では「光の戦士は英雄なのだから自分たちとは違う(だから自分たちにとっての困難も光の戦士なら解決できる)」と思っているのかもしれません。
結局ところ人々は、ヒカセンのことを自分たちとは別の物差しで測っているのです。当たり前のようでいて、実情は違った、というヤツです。
でもそんなヒカセンも、当たり前の感情や考えを持っていて、「英雄」として生きていく間はその思いを押し殺して生きねばなりませんでした。
フレイが渡した「心の声」は、その証拠に他なりません。
そんな、「英雄」として求められる声に答えようとする想いと、「冒険者」でありたい心を併せ持っていたヒカセンを、「冒険者」に戻してくれたのが、「暁月のフィナーレ」におけるゼノスです。
「思い出せ……! 武器を手にし、技を会得した時の高揚を。新たな脅威、いまだ踏破せぬ頂を目にした時の欲を!」
「命を費やさねば得られぬ歓びがあったはずだ。なぁ……「冒険者」よ」
その声にヒカセンは応え、ゼノスとの生命を燃やした戦いを交え、そして「光の戦士」は「冒険者」に戻れました。
それは、6.1におけるメインクエストにおいて確証されています。「冒険者」は今日もまた、未知の領域に心躍らせながら足を踏み入れることでしょう。
○ヴェーネス(ハイデリン)
意外と……というかめっちゃ武闘派な先代アゼムにして、最古にして最強の光の蛮神。
彼女は「暁月のフィナーレ」において、いずれメーティオンによってもたらされる「終末」への対抗策を残していたことが判明します。
ヴェーネスであった頃の彼女は、文字通り世界全てを愛していました。
人は勿論のこと、賢明に生きる動植物、吹きすさぶ風、豊かさを象徴する大地。その全てを大切に思っていることが、エルピスでの彼女の台詞から示唆されています。
「「当たり前」が取り払われた世界は、何もかもが新鮮で、とても美しかった。」
「眼前に広がる地平、吸い込まれるような空。静かだけれど力強い、自然の息遣い……。」
「それらの合間に、人の営みが明かりを灯し、言の葉を響かせる。」
「そんな光景に胸があたたかくなった。」
「何より、出会う人そのものが、たまらなく好きだった。」
「……だから、皆のためにできることをしていたら、還るに還れなくなってしまったのです。」
「もしかしたら、未来の私も……ハイデリンも探し続けているのかもしれませんね。」
「生きる理由ではなく、死ぬことができる理由を。」
「多くの可能性を持ち、ゆえにこそときに迷える人を、「もう大丈夫だ」と思える瞬間を……。」
しかし、メーティオンからもたらされた終末を前にして、古代人達は「こんなことはあってはならない」「だからゾディアークを創造して、かつての世界に戻るのだ」と述べて、ゾディアークを創造しようとする。
しかし、世界と人を愛しており、だからこそ可能性を信じているヴェーネスは、目の前の苦難(終末)に立ち向かうことを諭します。
「いいえ、いいえ!」
「この世界にも憂いはあった、苦難はあった。」
「それがたまたま人に向いていなかっただけなのです!」
「お願い、どうか目を開いて……!」
「命を捧げて命を生み、それを繰り返してもとに戻ろうだなんて到底、進歩とは言えません。」
「楽園でしか生きられない、そんなものにならないで……!」
「影なき国を創り得ない以上、いつかは決定的に破綻してしまいます!」
余談ですがこの時の古代人の主張は、私達の世界における子供にどこか似ています。
大人は生まれてきた子供に希望を教え、子供はそれに目を輝かせ、憧れる。
やがて子供は、希望がある世界の中で生きようとします。
しかしそれは、現実ではない。御存知の通り、世界は希望だけではなく、苦難や絶望だってある。むしろ、比率としては苦難や絶望の方がずっと多い。
だから、必然的に現実で生きるということは、「苦難を退け、絶望が訪れても意思の灯火を消さずに、悪意の暴風雨の中から輝く一筋の光のような希望を探す」生き方が求められます。
それこそがヴェーネス、もといハイデリンが最終的に求めた、人の生き方でもあります(であるが故に、彼女は灯火としての『光の蛮神』になったのかもしれません)。
それに反し、子供は空想の中にしか存在しない希望のみが存在する世界に生きて、現実の苦難は拒絶することが多い。
まさに、この時の古代人の主張そのもの。「終末が訪れている現実」から目を背けて、「星と古代人が愛し合っていたこれまでの世界(空想)」に生きようとしたのです。
ヴェーネスが言っていた通り、これまでは空想と現実がたまたま重なっていただけで、これからはそうではないというのに。
子供は、痛みを知って、泣いて、それで空想と現実を入れ替え始めます。
さながら、赤ん坊が生まれて始めて歩きだそうとして、転んで泣いて、それでも回数をこなして歩けるようになる工程みたいに。
グ・ラハ・ティア : ……彼らはさ、「古代人」って存在じゃなくて、確かに「人」だったんだと思う。
グ・ラハ・ティア : 初めて転んで……痛みをどうしたらいいのか、どうやったら起き上がれるのか知らなかったころの「人」……。
グ・ラハ・ティア : そしてオレたちは、そこから繋がってるんだ。
最初はハイデリンによって立ち上がらせられ、以来泣きながら、
憤りながら、怯えながら、歩き方を学んできた「人」なんだよ。
この、「子供」のようだった古代人達を分かち、歩かせ、転んでも助けて起こしてあげた、母親のような役割がヴェーネス……否、ハイデリンです。
彼女はメーティオンの報告を知ったことで、希望と相反、あるいは隣合わせの絶望のことを学びます。
曰く、絶望とは、人から決して切り離すことはできないもの。
曰く、誰かが絶望をしても、絶望してない誰かが手を差し伸べることで、希望を持ち続けられること。
曰く、そうした繰り返しの中で、痛みを知って、少しずつ強くなれること。
それをいち早く、唯一悟ることができた彼女は、何千年ものあいだ、彼女自信も傷つきながらもボロボロになりながら、人を支え続けます。
ーどこもかしこも激しく痛む
胸は苦しく 呼吸さえもままならない
新生した世界では すべての命が困難の中にある
瞬く間に命が流れ去り
澱むことなく まだ見ぬ方へと進んでいく
一瞬ごと 生まれ 死にながら
それぞれが答えを得ようとしている。
なぜ命を与えられながら死にゆくのか
無力でも叫び問うているー
不完全なる者は それゆえに
終わらぬ探求の旅を続けるのだ
探せー
終わりを知ってなお 立ち竦まぬ強さを
探せー
もつれた足を 先へ進ませるものを
探せー
暗闇のうちに 歓びを
絶望の中でも 消えぬ光を
彼女は、「人としての母」であり続けました。
そしてその想いはついに、ヒカセン達によって最高の形で報われる時が来たのです。
お願い、どうか……約束を……
あらゆる時代を超え、積み重ねてきた、人の答えを……
私たちは終わるものかと……
終焉を謳うものに、叩きつけて……!
私は、きっともう、魂も残らないけれど……
私の想いが、いつまでも、愛しき子らを護りますように……。
そして子は、母の手を離れて一人で歩き始めました。
子は親を、母をも超えて成長し、母すらも到達しえなかった頂へと足を踏み入れるのでしょう。
長くなりましたので、ここらで一旦区切りますね。
続きは、また(読まれることがあったのなら)執筆しますー。