蒼天50
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逃げ込んでおきながら、センはイシュガルドについて、多くを知らない。
クルザスに位置する皇都、イシュガルド。
雪に閉ざされた寒い国で、ドラゴン族と戦争をしている閉鎖的な国。
そして、ムッテとムートの故郷でもある。
センが知っているのは、それだけだった。
あの双子は、故郷の話をあまりしなかった。
寒いとか遠いとかいう、誰もが知っていることを話してくれるくらいで、
詳しく聞いてもはぐらかすばかりだった。
それでも食い下がれば、最後には必ず「地元が嫌いなの」と返された。
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センの保護を引き受けたのは、フォルタン家だった。
友人であるオルシュファンの家だとは知っていたが、
オルシュファンはいつもドラゴンヘッドにいて、そこは貴族らしい暮らしには無縁の最前線。
ウルダハ王宮に出入りしても、裁縫師として関わってみても、それはその時だけのことで、
貴族の暮らしというものを、センは間近に見たことがなかった。
初めて触れる冨貴に、センは圧倒された。
広く暖かく、豪奢な部屋に、傅く使用人達。
彼らすら仕立ての良い服を着て、どこも泥で汚れていない。
そんな彼らにオルティーズ様などと呼ばれ、センは冗談抜きに眩暈を感じた。
顔を顰めてしまって、しまったと思えば、今度は体調を心配されて
温かい茶や菓子が差し出される。
寒くてたまらないのに外に出る気になったのは、
そんな対応が、ひどく不釣り合いに思えたからだ。
旅装を着て街路を歩けば、
エレゼンでないことは明らかだし、このあたりには、肌色の濃い人間も少ない。
向けられる奇異の視線、その方が、自分にふさわしいと思った。
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イシュガルドに貧富の差がある事は、立ち入ってすぐに気付いた。
ウルダハと似て非なる、静かで冷たい断絶。
豪奢な服を着た婦人が供をつけ歩く横で、痩せた老人が、必死に肌を摩って温めている。
道端の子供たちが持つ、飢えてぎらぎらとした瞳。
数人が寄り添っているのは、その方が暖かいからだ。
それらを横目に歩いていれば、貴族の屋敷に感じた気後れは遠くなる。
そうなれば浮かぶのは怒りだった。
イルベルドへの怒りは、無力な自分への怒りにも通じる。
この無力が仲間を殺した。アルフィノを裏切った。
喉を掻きむしるような怒りを、センは知っている。
センの人生は、自由と冒険、楽しさ優しさと同じくらい、死と喪失に満ちている。
その都度抱いてきた怒りと恐怖、その根源に、だんだんと近づいてくる気になった。
……そんなことを考えていたから、
雲霧街に向かってしまったのだろうか。
密やかにこちらを伺う視線を受けながら、センはため息をついた。
今のセンには、それらは恐るに足りない。
飢えた子供は、センの財布どころか、髪一本盗むこともできないだろう。
脅威ではなく懐かしさでもって、センはその道を歩いていた。
そして、はたと足を止める。
センの前には、路地があった。
左右に迫る壁の間、石組に板を渡して、屋根のようなものが作られている。
それを見るうち、誰かが火でもつけたように、センの内に閃く記憶があった。
──板があればなあ。
記憶の底で、橙の髪をした少年が笑う。
彼は、ちょうどいい板が手に入れば、こうして雪除けにしたかったのだ。
──もちっと、寒さもマシになるんだけどさ。
ムッテとムートは、イシュガルドが嫌いだから、
わたしにイシュガルドの話をしなかったんじゃない。
わたしが、イシュガルド領内にいたからだ。
それはあまりにも虚しく、意味のない発見だった。
***
きっともっと小さな街だ。
貧しく、都から離れて、だけど交易の中継点として、街としての体裁を保っている……。
思い返せば表通りでは頻繁にチョコボキャリッジを目にしたし、
人よりも、荷物を積載したそれらを見ることの方が多かった。
一度開けば、記憶は止めどなく溢れてくる。
雪のちらつく空を見上げながら、センはまたひとつ溜息をついた。
調べればセンは、きっと故郷を探し出せる。
しかしそれは、あまりにも無意味だ。
一緒に住んでいた子供達は、ムッテとムートの口利きで孤児院に入ったし、残してきたものなど何もない。
「……だっていうのに、」
気付いてしまったし、無視ができない。
全てはどうにもならないのに。
失われたものを掬い上げることなんて、一つも、できやしないのに。