アニメ映画。
『リメンバー・ミー(英題:Coco)』ってありますよね。
これ、
実は、めちゃ映画館で泣いた。
自分でも信じられないくらいの涙の量で、
まぁ、たまたま来るべき時に来てしまった事もあるのですが、
なんで今なん?ここまで泣く?自分?
ってくらいヤバかった。
いやー、まさか縁もゆかりもない、
メキシコ題材のアニメ映画で嗚咽するとは思いませんでした。
特に、あのタイミングで、あの歌は本当に卑怯。
その時の感情の根拠を改めて言語化すると、
まだ何かピースが足りない。
それは何だろうか。
そして、何より、あら不思議。
何か最近どこかで聞いた話に通じます。
そう。このリメンバーミーの、
「忘れられた者は完全に消える」という概念は、
FF14のヨカフィ族のものに通じるもの。
FF14では、これを小人エピソードにしないで、
真逆に位置するジャイアントに寄せるあたりが、
見ていて興味深いと思うのです。
そもそも「記憶から消えることこそが本当の死」という話。
これって小さき者の方が題材としては、
すごくしっくり来る説ある。
西欧の伝承や伝記でも、
死に触れる事が出来る可能性が高いものと言えば、
「妖精」と「子供」の関係性だったりします。
そう!
妖精の必要性!
『フヒューーーーー!!』
※まだまだ温かい秋の風が吹きました
そう言えば、
自分、海外の方から、
「妖精は7歳までの子供にしか見えない」という話を聞きまして。
でも中身は日本の妖怪話と似ていてビックリしました。
イマジナリーフレンドが日本より「ちっこい」事くらいで、
中身は日本の昔話の構造にソックリなんです。
例えば、
友達の分までジュースを頼んでも大人にはその姿が見えなくて、
実は古くに亡くなった住人の子(座敷童)だったとか、
子供しか見えない友達が、やがて生まれてくる弟や妹だった。
その見えない子は「未来を告げるフェアリー」だったとかね。
でもね。そうなると、
じゃあ「妖精」とは一体何者?
なんで子供だと妖精に会えるの?
この年になって、きのう妖精見ちゃいました!
って言ったら、なんで皆離れて行くの?
(それは・・・)
めっちゃ基本的な疑問が浮かぶ。
なので、本日は、
ちょっと「妖精」の話しまーす。
まず妖精の起源は、
ケルトやゲルマンなど古えの自然信仰でしょう。
森や水、土などに宿る神聖な力として信じられていた時代。
それが時代が進むと、
神様への信仰が薄れたりしても、
その残響からか、「目には見えない存在」とか、
「境界に棲むもの」として受け継がれる事が多い。
なんか自分、無宗教だけど、
腹痛ポンポンペインの時とか、
「かみさまー!」
ってトイレで叫んじゃうヤツね。
(トイレの神様、特殊すぎ!)
さて、ここでの「境界」とは、
対なる事象を行き来する媒介者が通る道です。
つまり、究極的に、生と死、ですね。
そうそう。実は中世まで、
妖精は特に「小さい」存在ではなく、
人間と同じ等身大だった。
この見えざる者の正体は、
具体的な像を飾っちゃいけないぞ!
などの文化の流入から具体性を見失った説などもありますね。
そんな頃に、ポルターガイスト的な
夜中に物が動いたり、花瓶が落ちたりするのは、
ゴーストというよりは、そんな小さな隙間に入るのだから、
もっと小さいボディのスケールダウンが起きてたり。
また家族に、
朝起きたらハチミツの瓶が破損していた事を説明するのに、
防御としても、機能していたのです。
「妖精の仕業なんで!」
はっ!
これって妖怪ウォッチじゃない?
(単に大人が割った時の言い訳だろうが!)
では、
なぜ子供だけが妖精と遊ぶのか?問題。
この可能性があるのは、
やっぱり、イマジナリーフレンドとの関係性ですかね。
例えば、
子どもが作り出すイマジナリーフレンドは、
自我の拡張や感情整理のためで、
自分でも処理しきれないビッグな出来事は、
空想の相手とコミュニケーションを取ることで補完。
逆にフレンドは実在してはダメで、
自分の都合に100%合わせなければいけない。
これって子どもの一人遊びも同様で、
空想の登場人物と創作シナリオの中で関わることは、
現実と幻想の境界に出現する仲間との出会いと同型。
単ある遊びの先には、異界への小さな通路があり、
「フレンド=妖精」はその空間に現れる者。
さて、ここで、
あえて視点のレンジを切り替えて、
まぁ妖精って言ってもフィクションじゃん!
って冷めた見方をしてみたい。
例えば、
19世紀から20世紀にかけては、
サーカスの見世物小屋に妖精が登場。
さらに近代では、コティングリー妖精事件が有名。
妖精と一緒に写真撮影した事例。
うわ!マジで?
妖精って実在するじゃねーか!
しかーし!
良く調べたら、
見世物小屋でみられていたのは奇形の動物や、
様々なミイラを組み合わせた物でしたー。
そしてコティングリー妖精事件は、
撮影者本人がPrincess Mary’s Gift Bookの挿絵だったと、
ピンで地面に固定して撮影方法を告白してましたー。
と。
残念ながら、
これらの有名妖精はフェイクだった。
じゃあ、それでも何故、
「偽物の妖精」が世界で愛されているのでしょうね。
もちろん!
妖精王ティターニアやフェオちゃんは、
ファンタジーだから良いんだもんね!
も良いですよね。
でも実は、視点を大人目線で見直すと、
ちょっと見え方も変わって来るんで、
その辺を最後に補足しましょう。
例えば、妖精が子供をさらう古い話では、
突然亡くした子どもの死を乗り越えるための、
大人用の「クッション」になっている説です。
文化人類学で言うなら、
大人でも処理できないほどのショックな事から、
自分を守るための防御装置!みたいな。
先の日本の不思議な話の「未来の魂」も、
実は親としては過去に流産などの経験があり、
魂が巡り廻ることで故人が救われたい心理みたいなものがある。
つまり、ヨカフィ族や、リメンバーミーの、
「忘れられたとき本当の死が訪れる」という考えの裏には、
死を乗り越えるための忘却機関であるとも言えますね。
古代エジプトでは、
その名が語られなくなった魂は消滅させ世代交代を意識。
北欧では名を残す者がヴァルハラに迎えられるように、
ある種の「逃げ」を設けた。
肉体の死は第一段階であり、
記憶から消える「第二の死」こそが本当の終わりで、
それは区切りのレイヤー構造の物語でもあります。
「肉体の死」と「記憶からの死」は別段階だと。
人類普遍の死生観を思い出す。
ここって、ネガティブ思想であるものの、
残された者へのポジティブ思想もある。
だから、この理解を促す使者を添える。
フェアリー、フルドフォルク、仙、
フェイ、ニンフ、産女、などなど。
名前は違えども、全ては「妖精」に通じる話。
漆黒のメインシナリオを思い出してみてください。
冒険者は霧の国の淡い中間世界に降り立つ時に、
新たな存在へと変容するために「再生の門」をくぐる。
フェオちゃんは個として芽吹く意志であり、
妖精王は循環と終焉の象徴として、
この2者がバランスよくポジとネガを担う象徴になっている。
ここでも「新たな存在へと変容する」と言うのが、
実はとても「妖精」っぽいですね。
忘れられた者と関わる事は、
現代でも形を変えて生き続けている背景がある。
それは、支えきれない巨大な圧の中で、
自然と「見えない世界とつながりたい」という、
人間の根源的な欲望を映す鏡として無意識に機能している。
そうなると、話を戻して、
自分が『リメンバー・ミー』に涙したのは、
単に感動しちゃった!だけはないですね。
この映画、羽根のある妖精はいないのに、
妖精の役目を色々なキャラクターが担うことで、
なんか「妖精」っぽさを意識しちゃった。
英語タイトルの「Coco(ココ)」とは人の名前。
『忘れないで!』
それは忘れてしまう事をネガにしながら、
忘れてたまるか!というポジを意識する「狭間」の言葉。
妖精はフィクションだと分かっていても、
接続するチャンスを与えた者よ!ありがとう!という感謝。
それこそが言語化した時に欠けていたピースよ。
そう!
それこそが!
妖精の必要性!
(結局『ようせい』で韻踏みたいだけでしょ!もういいわ!)
おしまい!