父の死から数日――
フォルドラはただ、どこかへ逃げだしたいという思いに駆られていた。
母はあの日以来、ずっと泣き続けている。そんな母の前では、涙を流すことさえ憚られた。同胞からも帝国人からも蔑まれ、心は徐々に磨り減っていく。
生きる理由が、わからなくなっていた。
日が傾きかけたころ、見回りの帝国兵がいない薄暗い裏路地を通って、フォルドラは街の外を目指していた。子供ひとりがやっと通れる隙間を抜けて城壁の外へ出ると、東アバラシア山脈の稜線を一望できる場所へとたどり着く。ここはフォルドラがひとりになりたいときに訪れる、秘密の場所だ。
西日の眩しさに思わず目を細めた。日暮れ前の真っ赤な空が、フォルドラは好きだ。
「どうして赤くなるの」と父にしつこく尋ねたことを思い出した。そんな疑問をあしらうこともなく真正面から共に考えてくれる、生真面目で優しい父だった。
不意に気配を感じて、はっと我に返った。
振り返れば、青い巨体に浮かぶ黄金の双眸が、じっとフォルドラを見下ろしていた。湖畔から腹を空かせてやってきたのだろう。獰猛な捕食者としても知られる大型両生類アバドンが、長い舌をちらつかせ、獲物を見定めていた。
それでもフォルドラは、恐ろしいとさえ感じなかった。
ただ、自分はここで死ぬのだと、理解した。
――しかし、そうはならなかった。
「うおりゃああああああ!!!!」
最初に聞こえたのは、威勢のいい女性の掛け声。遅れて風切り音と、鈍い打撃音。
そして次の瞬間には、目の前の巨大な塊が……消えていた。数秒後にどさりと音がして視線を遣れば、アバドンが遥か先でひっくり返って、短い足をばたつかせている。
呆然としているフォルドラのもとに、格闘士らしき女性が小走りに近づいてきて声をかけた。
「大丈夫? 怪我ない!?」
突然のことに頭の処理が追いつかず、やっとの思いでフォルドラは頷く。
女性は「よかったあ」と安堵の声を漏らし、いつの間にか尻もちをついていたフォルドラに、片手を差しだした。顔の半分以上を覆うバイザーで表情はよく見えないが、露出している口許で愛想の良さがわかった。燃えるような夕焼け空が、よく似合う人だと思った。
「アタシはイダ、よろしくね!」
差しだされた手を取ることもできずにフォルドラが固まっていると、イダが強引に両手を掴んできた。そして小さい子にするように……否、小さい子がするように、ぶんぶんと上下に振りながら、なぜか楽しそうに笑みを浮かべるのだった。
「あ、あの……?」
「あなたの名前は?」
「……フォルドラ」
「こんなところでひとり? お母さんやお父さんは?」
「母さんは、たぶん家で……父さんは……」
つい言葉に詰まって俯くと、イダは「そっか」とだけ言って、それ以上は訊かなかった。
「……ねえフォルドラ。明日もまた、この場所で会おうよ!」
脈絡もなく、イダが言った。
どうしてかと尋ねると、イダはうーんと首を捻ったあと、「友達になったから!」と言い放った。……どうしよう、まるで状況が呑み込めない。命の恩人とはいえ、いつの間に友達になったのかと、さすがに抗議を試みたが徒労に終わった。
「だいじょーぶ! その辺の魔物ならアタシがぶっ飛ばしちゃるからさ!」
いいでしょ? と握ったままの手を離そうとしないイダは、はなから断らせる気などないらしい。フォルドラは大いに戸惑いながらも、頷くしかないのだった。
以降、イダは、毎日のようにフォルドラを様々な場所に連れだしてくれた。
ロッホ・セル湖にふたりで潜って目を真っ赤に腫らし、心配する母を誤魔化すのに苦労したのは良い思い出だ。狩りのコツも教わった。生まれて初めて自力で仕留めた獲物は、イダが焚火を作って簡単に調理してくれた。母の手料理と違って野性味にあふれていたが、心から美味しいと感じた。フォルドラはそのとき初めて、父が亡くなった日以来、自分が笑っていることに気づいた。
それからイダはよく、妹の話をした。
同じく父を亡くし、ショックで笑わなくなってしまった妹を元気づけるために、必死にあちこち連れまわしたのだと語った。
「だからフォルドラを見たとき、あの頃の妹を思い出してさ。
放っておけなくなっちゃったんだよね」
イダは“相棒”と共に、任務で数週間ほどギラバニアに滞在する予定だと言っていた。一度その理由を尋ねてみたが、曖昧に笑うだけで教えてはくれなかった。
だけど、彼女が時折、リンクパールで通信している“相棒”との会話の内容から、なんとなく察していた。意味はよくわからなかったが、「亡命」という言葉を何度か耳にした。
きっと、彼女は帝国の敵なのだろう。
それでも、フォルドラは自分でも不思議なほどに、イダという人物にすっかり心を許していたのだった。
「……アタシと一緒に来ない?」
イダの任務が終わりに近づいたある日、彼女が思い切ったように言った。アラミゴを出て、一緒に他の土地で自由に暮らさないかと。
あまりに突然のことで、即答できない。家族や友人も連れていけるのかと問えば、イダは辛そうに口を開いた。
「たくさんは無理なんだ……。
数人なら、なんとかキャリッジの荷台に紛れ込ませて、連れていけるかもしれない」
「ごめんね、困っちゃうよね」とイダは謝った。それでも誘ったのは、フォルドラ自身が「どこかに逃げたい」と漏らしたときのことを、覚えていてくれたからだろう。
相談してよく考えてみるようにと言って、彼女は亡命の決行日と待ち合わせ場所を伝えた。それはすなわち、イダがアラミゴを去る日を意味した。
フォルドラは悩んだ末に、幼馴染の友人たちに相談することにした。
だが、ひととおり話を聞いた4人の友人たちは、皆一様に黙ってしまった。
長い沈黙を破ったのは、エメリンという名の少女だった。
「ごめんね……。私、家族を置いていけないよ……。
でも、フォルドラと離れ離れになるのも嫌だよう……」
泣きだしそうな顔を隠すように、エメリンは俯いてしまった。
隣にいる大柄な少年、フルドルフもまた申し訳なさそうに言う。
「俺も……歳食った爺ちゃんがいるから……すみません……」
そうか、と肩を落とすと、フォルドラを姉のように慕う年下の少年、チャーレットが涙目で言った。
「僕はフォルドラ姉の気持ちがわかるよ!
お父さんのことがあってから、ずっと辛そうだったけど、
最近すごく楽しそうだったことも知ってる……!
だから……もし、フォルドラ姉が行きたいなら……さ、寂しいけど……僕は応援するよ!」
そんなチャーレットの実兄であるアンスフリッドは最後まで沈黙を守っていたが、ついに我慢できないという様子で叫んだ。
「馬鹿! アラミゴ人なんかに頼ることねーよ!
俺たちが支えるから、行くなよ、フォルドラ!」
そう憤る彼もまた、唇を震わせながら強く拳を握り締めている。
兄の一喝に、弟のチャーレットはとうとう泣きだし、
「やっぱり、僕も嫌だ……みんなずっと一緒に居られるって思ってたから……」
「うわああん、フォルドラ行かないで……!
私たちがどこにだって付いていくから……」
そんなチャーレットにつられて、エメリンまでわんわんと泣きだす始末。
泣き虫な友人たちに呆れつつも、フォルドラは彼らの想いが嬉しかった。アラミゴ人と帝国人との狭間で、同じ苦しみを分け合ってきた友人たちを置いて、自分だけ逃げるわけにはいかない。フォルドラはイダの誘いを断り、アラミゴに残ることを決意した。
今は一緒に行けずとも、きっとまたいつか会える。
だから寂しいけど、最後の日はきっと笑顔で送りだすのだと心に決めて、フォルドラは家路につくのだった。
このとき物陰で会話を聴いていた者がいたなどと、露ほども思わずに――。
約束の日。
フォルドラは、指定された場所でイダを待っていた。
だが、姿を現したイダの様子は普段とはどこか違っていた。いつもフォルドラを見つけると嬉しそうに走り寄ってくる彼女が、今日に限っては、こちらを見るなり足を止め、あたりを警戒するように見渡している。つられてフォルドラも周囲を見てみるが、廃墟が立ち並んでいるだけで、特におかしい様子はない。
「……イダ?」
小声で語りかけてみたが、通信が入ったのかイダはリンクパールを耳に当てた。
きっと、いつもの“相棒”に違いない。
「りょーかい。
……実は、こっちも結構マズイ状況なんだ。
うん、予定変更。アタシのことはいいから、今すぐ出発して」
いったい、何のことだろう……。微かに漏れ聞こえる通信の向こう側で、“相棒”が怒鳴っているのがわかった。
「……ごめん、パパリモ! 妹のこと、よろしくね!」
普段通りの明るい口調でそう言うと、イダは通信を切断した。
よかった、いつものイダだ……そう安堵し、近づこうとしたとき――
背後で複数の足音がした。
心臓が止まるほど驚いて振り返ると、帝国兵が2人……3人……否、続々と姿を現した帝国兵は、優に10人は超えている。
「お前、騙したな……!」
今まで聞いたことのない冷たい声で、イダが言った。それが自分に向けられた言葉だと理解するのに、数秒を要した。
「え……?」
「帝国兵を連れてきやがって! 裏切り者!」
違うと訴えようとして、すぐに気づいた。
イダが芝居を打っていること――そして、自分が帝国兵につけられていたことを。
「金持ちの商家の娘だからと、その財産を狙ってきたが……
でも、計画は失敗……もう用無しなんだよ!」
これはすべて、反帝国活動家の一味であるとの疑いが自分に向かないようにするための、イダの嘘だ。
情けなくて、悔しくて、唇を噛んだ……。
帝国兵のひとりが、通信機を取り出して状況を報告し始めた。そのとき、
――にげて
イダが口の形だけで、そう告げたのがわかった。
瞬間、じりじりと間合いを詰めていた帝国兵のひとりが、身柄を確保しようというのかフォルドラに手を伸ばした。ほぼ同時にイダが大地を蹴り、一瞬で間合いを詰める。鳩尾に強打を食らった帝国兵が、くぐもった声を上げて崩れ落ちた。
慌てた残りの帝国兵が、一斉にイダを取り囲む。
トントンとステップを踏みながら、イダも拳を構えて挑発する。
「怖いならまとめてかかってきなよ、卑怯者!」
「この蛮族を殺せッ!!」
帝国兵の怒号と共に、フォルドラは走りだした。今自分がここにいても、イダの足手纏いになるだけだ。
廃墟の間を縫うようにして走り続けた。
だが、所詮は子供の足だ。たちどころに、ひとりの帝国兵に追いつかれ、鈍く光る無骨な剣が振り上げられる。怖い――恐怖で、フォルドラの足がもつれた次の瞬間、帝国兵が吹っ飛び、瓦礫に突っ込んで動かなくなった。
神速の武技で間合いを詰めたイダが、帝国兵の脇腹に強烈な一撃を打ち込んでいたのだ。
振り返ったイダと、視線が交差する。目元を覆っていたバイザーは外れ、アラミゴ伝統の入れ墨が露わになっていた。初めて目にした青い瞳が、慈しむように細められた。
逃げてと伝えたいのに、声がでない。
怯え、震え、立ち尽くすフォルドラに、イダが不意に近づき、ふわりと頭を撫でて言った。
「生きてね、フォルドラ。
生きて、生き延びて、いつか必ず……希望を掴むんだ」
嗚咽をこらえ、頷くことしかできないフォルドラに柔らかく微笑むと、敵を引き離すため、彼女は踵を返して反対方向へと駆け出した。
紅蓮の空を背に、イダは舞う。
ひとり、またひとりと帝国兵が倒れていく。
それでも、躱しきれない刃が、打撃が、銃撃が、少しずつイダの体力を削っていく。
塩湖の白い地面が、徐々に紅く染まっていくのが遠目にもわかった。
次から次へと増援がやってくる。市街地の方から、金属の擦れる不快な音とともに、巨大な魔導兵器が向かってくるのが見えた。彼女ひとり逃げるくらいだったら、簡単にできただろう。それでも無謀な戦いを選んだのは、ひとえにフォルドラを逃がすため。たったひとりの子供を救うために、イダは自分の命を犠牲にしようとしていた。
「なんで……私なんかのために……」
助けを呼べば、まだ間に合うかもしれない。
でも……誰を……?
いったい誰が、彼女を助けてくれるというのか?
考えても答えなど浮かばず、フォルドラはただ、自分の非力を呪うことしかできなかった。
それでも、生きるために、一歩、また一歩と、震える足を必死に動かした。
イダの最後の言葉を、繰り返し、胸に刻みながら――
結局、イダのおかげで、幼いフォルドラにそれ以上の嫌疑がかけられることはなかった。だが、また何か疑わしいことをすれば、今度こそは母親共々……下手すれば友人たちも投獄され、そして殺されるのだろうと、フォルドラは理解していた。
ならばこのまま、帝国人として、のし上がるしか道はない。
彼女の言う希望が何なのか、今はわからない。
だが、生きると誓った。
あのとき救われたこの命で、いつか、約束を果たせる日が来ると信じて。

数年後、フォルドラは顔に入れたばかりのアラミゴ伝統の入れ墨を指でなぞっていた。
あの人から受け取ったすべてを胸に抱いて、ゆっくりと歩きだす。その先には、アンスフリッド、エメリン、フルドルフが待っている。
この日、彼らはガレマール帝国軍第XII軍団に志願した。


