イシュガルド教皇庁、謁見の間。
その最奥に据えられた教皇の玉座につく者は、もういない。
ひとりの冒険者が千年に亘った竜詩戦争を終結へと導いたのち、イシュガルドの政治は教皇の神権政治から、貴族院と庶民院の二院による共和制へと移行した。かつて限られた者のみが教皇に拝謁したこの広間は、公的な評議を執り行う議事堂へと改められ、今では多くの議員が出入りしている。
そして、フォルタン伯爵家の当主となったアルトアレールもまた、貴族院の議員のひとりとして、その責務を果たさんとしていた。
「では、これより表決を行い、本日の議会は終了とする。
投票を終えた者から退室してもらって構わない。みな、遅くまでご苦労だった」
黄昏時、石造りの荘厳な室内にアイメリク・ド・ボーレル子爵の声が響く。
貴族院の議長となった彼は、諸外国との公務と並行して、一日の大半を議会に費やしていた。
彼の言葉を皮切りに、議員たちは起立して投票へ向かう。主権が教皇から民衆の手に移ってからというもの、代表者として選出された両院の議員たちは、慣れぬ共和政治に向き合いながら、模索の日々を送ってきた。
アルトアレールもそんな議員たちと共に票を投じ、席を片づけて帰路につこうとしたとき……
彼の瞳に空席の玉座が映った。
そういえば、あの時も玉座は空であったな……

17年前、前教皇の崩御に伴い、新たな教皇トールダン7世の就任式がこの謁見の間にて行われた。
厳粛に執り行われた就任式だったが、新たな教皇の姿を一目見ようとした人々が、グランド・ホプロンにまで溢れかえっていたという。
だが、謁見の間での正式な参列が許されたのは、聖職者たちと蒼天騎士団、そして選皇権を有する四大名家に連なる者のみだった。
当時13歳だった幼きアルトアレールもまた、フォルタン家の長子として共に参列していた。
執事たちが着せてくれた普段の晩餐会で着ているものよりもずっと上等な礼服は、彼の胸を躍らせた。末弟のエマネランも、教皇の就任式の意味するところはわからないまでも、その重要性は理解できるらしく、大人たちを見習って静かにしている。
だが、その場にオルシュファンはいなかった。
同じ家に暮らしながらフォルタンを名乗ることが許されない彼は、家に残る。
そう出発前に父が苦渋の表情で話した理由を、アルトアレールは薄々察していた。母がオルシュファンを嫌っていること、そして彼には兄弟とは思えぬよそよそしさがあることは、幼い頃から感じ取っていたからだ。真相が理解できるようになるのは、もう少し年を重ねてからのことになる。
そんな、ひとり欠けたフォルタン家と四大名家の面々の前に、教皇だけが身につけることのできる法衣をまとったトールダン7世が姿を現した。初代教皇から受け継がれている宝杖「戦神の慈悲」を手にして、まっすぐに前を見据えて玉座へ向かう荘厳な姿に、大人たちはこの者を選んで間違いはなかったと確信し、子どもたちは畏敬の念を抱く。
「我、トールダン7世は、戦神ハルオーネの地上における代理者として、ここに誓う。
豪胆将トールダンの遺志を継ぎ、正しき教えを伝え、正しき政を為すと。
邪竜を打ち倒せし十二騎士の血脈に連なる貴族諸君を筆頭に、
すべての者に祝福あらんことを」
トールダン7世の宣誓に、アルトアレールは感銘を受けた。
父や家庭教師たちから学んできたことであったが、自らの祖が建国神話に登場する十二騎士であることが強く再認識させられたのだ。
彼は誇りを胸に、決意を新たにする。
僕もご先祖様のように、イシュガルドを守る立派な騎士になるんだ……!
新教皇の宣誓が終了し、就任式が閉式すると、参列していた人々は帰路につく者と、残って歓談をする者とに分かれた。謁見の間の扉も開かれ、一目でも新教皇に拝謁する機会がないかとうかがう下級貴族や、四大名家に名を売り込もうとする騎士たちも流入してくる。
アルトアレールはエマネランと一緒に、残って歓談に応じる父エドモンの後ろについて周囲に目を配る。貴族社会を円滑に生き抜くため、人々の動向には日々注視しておくように言われていたからだ。
そんなアルトアレールの視界の端に、デュランデル家とゼーメル家の者たちが早々に引き上げていく様子が映る。四大名家の中でも赤地の紋章を背負うふたつの家は、常に一族郎党で寄り集まり、権謀術数を巡らせている印象が強い。
一方、黒地の紋章を背負うフォルタン家とアインハルト家は社交的で、古くから関係が深い。現にエドモンは、当主ボランドゥアンをはじめとするアインハルト家の面々と談笑に応じている。見たところ、アインハルト家の四男一女の兄妹のうち、もっとも幼いフランセルはどうやら留守番らしい。親同士がなにやら難しい話を始めると、子どもたちも好きに口を開き始めた。
エマネランが、顔いっぱいに笑みを浮かべながらアインハルト家の三男クロードバンと、長女ラニエットのもとへ駆け寄る。年下の面倒見の良いクロードバンを、ラニエットもエマネランも慕っているようだ。
アルトアレールは、長男ステファニヴィアンと次男オールヴァエルに向かって、うやうやしく礼をした。年の近い隣家の子どもたちは、将来的に味方にもなればライバルにもなる。適切な距離を保ちつつも、親しくなっておきたい存在だ。
「そんなにかしこまることないじゃないか。同い年なんだし」
そういってステファニヴィアンはからからと笑う。オールヴァエルもまた、屈託なく話した。
「正直、僕はくたくただよ。
式典は終わったんだし、はやく帰りたいな……」
「ああ、作りかけの機械が俺を待ってる。父上に言って、先に帰ってしまおうか」
言うが早いか、彼らはアルトアレールに別れの挨拶をすると、父親に許しを得て家路についてしまった。天真爛漫で仲睦まじい彼らを、アルトアレールは少し羨ましく思う。
こうして取り残されたアルトアレールは、ふたたび人々の動向を自分なりに観察するため、辺りを見回した。
すると、自分よりは少し年上だろうか、凛々しい顔つきをした黒髪の少年が、険しい表情で空の玉座をじっと見つめていることに気づいた。その様子に驚いたアルトアレールは、思わず声をかける。
「あの……どうしてそんなに怒っているの? 教皇猊下がお嫌いなの?」
はっと振り向いた少年は、少し顔を歪めて話す。
「貴殿はフォルタン家の……。
私の出自についての噂を知らないのなら、貴殿には関わりのないことです」
つっけんどんに返され、アルトアレールは面食らってしまう。
だが、黒髪の少年がそんな態度をとるのも無理はない。彼はアイメリク・ド・ボーレル。
子爵家の養子であるが、独身を貫かねばならない聖職者であるはずのトールダン7世が愛人に生ませた落胤であると囁かれる少年であった。
ボーレル子爵と夫人が、その愛情から生みの親の話をしなかったことをよそに、噂好きの者、悪意ある者、いらぬ節介を焼く者が、少年の耳に入るようにわざとらしく噂をするものだから、アイメリクは少しずつ自分の生まれに懐疑心を抱くようになった。
そして、いつか教皇に謁見して真相を確かめたいと思うようになったのだ。
だが、子爵家の少年が高位聖職者、ましてや新たな教皇になった者と謁見できる機会はそう巡ってくるものではない。
だからといって年下の少年に八つ当たりすることが許されはしないだろう。反射的に言いはしたもののアイメリクはばつが悪くなって、アルトアレールに自分から声をかけ直した。
「その……トールダン7世猊下は、どんな話をなされていたのですか?」
「ええと、すべての人に祝福があるようにと。とても立派なお方だったよ!」
教皇の宣誓を思い出して顔を輝かせるアルトアレールと対照的に、アイメリクは表情を変えずに淡々と話す。
「すべての人に祝福だなんて……。そんなこと本当にできるのでしょうか」
きっとできる。そうアルトアレールが答える前に、彼らの背後から声がした。
「ぜったい、できます! 新しい教皇さまは偉大なお方ですから!」
アイメリクとアルトアレールが振り返ると、そこには簡素な身なりの金髪の少年が立っていた。おそらくは騎士の子弟といったところだろう。子ども同士とはいえ、貴族の身分である者たちの話に割り入った彼は、大きく礼をしてから、それでも我慢ができず話を続けた。
「新しい教皇さまは、去年、おはなし会に来てくださったんです。
騎士の子どもたちが、いい騎士になれるように、お祈りしてくださって……。
とってもとっても、優しくていい方なんだよ。僕は、教皇さまを守る騎士になりたい!」
少年がいうおはなし会とは、正教会による慈善活動のことを指す。
熱意をもって話す少年に、アルトアレールは自分の想いと通ずるものを感じ、親しみを覚えた。
一方アイメリクは、なにか言いたげに口を開き……そしてまた口を閉じた。
そこへ、ひとりの騎士がやってきて、平民の少年の肩に手をかけた。
「ヴァルールダンのせがれ! 親父殿が探しているぞ!」
金髪の少年は背筋を伸ばしてもう一度大きく礼をすると、アルトアレールとアイメリクに別れを告げて去っていった。
「私ももう行かなくては。失礼、アルトアレール殿」
彼に名前を教えたっけ、と疑問を抱くアルトアレールに背を向け、アイメリクも去っていく。
彼もまた自分と同様に、権謀術数にまみれた貴族社会を生き残るため、人々をよく洞察することを怠らぬ者であったというわけだ。そして、人並みならぬ努力で文武の鍛錬を欠かさなかったことが、後に明らかになる。
十数年の後、彼は神殿騎士団の総長にまで上り詰めたのだから――
「アルトアレール卿。
みなはもう帰ったが、どうかしたのか?」
残っていたアイメリクに声をかけられ、アルトアレールは我に返る。
物思いにふけっている間に、議員たちは投票を終え、帰路についていたようだ。
幾度か戦場で共に戦ったこともあって、ふたりは信頼で結ばれ、今では気さくに会話を取り交わす仲になっていた。
「空の玉座を見て、ふとトールダン7世の就任式を思い出しましてね。
アイメリク議長、あなたと初めて言葉を交わしたのも、あの時でした」
アルトアレールの言葉にアイメリクは、ほう、とあいづちを打ち、彼もまた玉座を見つめて、そして眉根をひそめた。
「……今となっては、苦い過去だがな」
幼少の思い出は、ふたりを饒舌にさせた。
アルトアレールは、胸に抱えていた想いをアイメリクに打ち明ける。
「私にとっても……イシュガルド正教を、教皇を、
純粋に信じていた過去は、懐かしいような恨めしいような、複雑な想いです。
当時抱いた己の矜持も、偽りの歴史の上に成り立つ、まがいものでしかなかったのだと思
うと」
「歴史の隠蔽は、正教の犯した最大の罪だ。
政治の改革も一筋縄ではいかないことは確かだが、
信じていた正教に裏切られた個々人の想いは、傷跡は、永く癒えることはないだろう」
アルトアレールは、ギムリトダークでの野営中にアイメリクから聞いた話を思い出す。
かつて教皇の謀略を問い詰めた際、トールダン7世は『千年もの間、受け入れてきた歴史と信仰を、民は易々と忘れられると思うのか?』と彼へ問いかけたのだと。
そしてその言葉が、棘のように胸に残り続けているのだと。
私も、彼も、皇都の民もみな、正教を簡単に忘れられるはずがない。
忘れられないからこそ、こうして悩み続けている。
だが……
アルトアレールが言葉を継ごうとしたとき、アイメリクが先に口を開いた。
「だが、だからこそ痛みに目を背けず……
過去と現在の想いを受け止めて、その先の未来を歩みたい」
空の玉座を見つめたまま心の丈を打ち明けるアイメリクに、アルトアレールは静かに頷く。
窓から差し込む夕影が、彼らの背中を照らしていた。


