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アルセナさんのエオルゼア日記⑦「今年は地元の祭り-[弘前ねぷたまつり]-に参加してきました」

公開
 (注意)今回は理由があって残酷めな画像を載せています。
 たまにはエオルゼアのことだけではなく、リアルでの出来事も書こうかなと思います。

 今年は地元の祭りである「弘前ねぷたまつり」に参加・観覧してきました。

 当初は全く参加する気がなかったのですが、職場の上司に「出よう、出よう」と薦められ二つ返事で了承。それ以上にリアルでの仕事や出来事が創作する上での助けになったりするので「これもいい経験になるかなー」と思い参加しました。
 弘前ねぷた祭りに参加するのは約八年ぶり。久々に参加してみてとても楽しかったので、この祭りのことを青森県外のヒカセンの皆さんにも知ってもらいたいと思い、今回日記を書くことにしました。

 「ねぶた祭り」と聞いて皆さんが思い浮かべるのは青森市で行われる、昨年度FF14が参加したことでも知られる「青森ネブタまつり」の方だと思いますが、青森市だけに留まらず7月の下旬から8月の上旬にかけて県内各地で「ねぶたまつり」が行われるんですよ。
 黒石ねぷたまつり、五所川原ねぷたまつり、平川ねぷたまつり、つがる市ネブタまつり、藤崎ねぷたまつり、そして弘前ねぷたまつり……。
 私が知っているだけでもこれだけあります。
 「ねぶた祭り」の起源は、禊や祓いのために形代などを川や海に流す神送りの行事「ねむり流し」から。青森県ではそれが変遷していって現在のように灯籠を用いる形になったそうです。
 「ネブタ」「ねぷた」と呼び方が二つありますが、じつは文献などには「ねぷた」という呼称は見当たらなかったりします。詩歌を歌う際に「ねぷた」の方が語感と響きよく合うため、その影響で昭和初期から弘前では「ねぷた」という表現が多くなってきた、という説も……。昭和五五年二月一日に祭りが重要無形民俗文化財に指定された際、正式名称として「弘前ねぷた」と決まったことから現在の形で呼ぶことが通例となりました。

 それでは青森ネブタと弘前ねぷたを比較しながら特徴を述べていきます。
 まず使われる灯籠の形が違います。
 青森ネブタは組んだ針金に和紙を貼って製作した人形型の灯籠が主流ですが、弘前ねぷたは扇形の骨組みに武者絵を描いた紙を貼った扇灯籠が主流です。

 この形になったのは明治時代半ばから。それ以前は青森ネブタと同じ人形ねぶた(組ねぷた)でした。扇形になった背景には廃藩置県で士族たちが没落し、経済力が衰えたことによりコストが嵩む人形ネブタが作りにくくなり、骨組みが使い回せてかつ修復も容易な扇形の方がコストが安上がりで済むという事情がありました。
 掛け声も青森ねぶたは「ラッセラー」ですが、弘前ねぷたは「ヤーヤドー」。
 運行形態も青森ネブタはハネトたちが舞い踊りながら進みますが、弘前ねぷたは整然と隊列を組んで進みます。これには理由があるようで、青森ネブタは戦いに勝利し凱旋している様子を表現していて、弘前はその逆。これから戦いに向けて出陣する様子を表現しているのだとか。だから弘前ねぷたの祭囃子には悲壮感を感じるという人もいたりしますね。
 青森ネブタが横に広い構造なのに対し、弘前は縦に長い構造になっています。
 それぞら上から「扇」、逆台形型の「開き」、画像には写っていませんが下は四角形になっており「額(がく)」と呼ばれています
 骨組みの材質は木、鉄骨、一部にはアルミを使っている団体もあります。
 ねぷたには小型と大型があり、小型は子供が一人でも引っ張れるようなものから約5mのものを指し、大型は約5.5m~9mのものを指します。「そんなに高いと信号機や電線にぶつかったりしないの?」と思われるかもしれませんが、扇ねぷたの上部分は「折り返し」と呼ばれ折ることができるようになっており、骨組みの中には昇降機が内蔵されていて、これらを利用することにより7~9m台のねぷたも3~4m近くまで縮めることができるのです(ちなみに縮む際に扇部分が下降するのと連動して開き部分も折り畳まれます)。
 弘前の中心街である土手町。弘前ねぷた祭りの1~4日の運行コースであり、ここを東西に走る二車線の、4m程の道幅が広くない道路を大きなねぷたが練り歩くものですから、青森のねぶたとは違った迫力が味わうことができます。
 それとこれも特徴のひとつ。青森ネブタに参加する団体は企業や法人が多いですが、弘前ねぷたの参加団体は企業や法人が少なく、ほとんどが弘前市内の地域の有志の集まりだったりします。中には地域にこだわらず、ねぷた好きたちで結成した団体というのも少なからずあります。
その総数約七〇台。青森ネブタの台数の3倍以上です(黒石ねぷたはこれよりもっと多いです)。

 ねぷた絵について。
 扇の表と裏に貼られる絵には名称があり、表部分は鏡絵、裏は見送り絵、その見送り絵を囲むようにして描かれているのは袖絵と呼ばれています。扇の側面には地域名や団体名が書かれます。

 絵に使われる画材は墨、染料、そして溶かした蝋(ロウ)。蝋には紙を丈夫にし、染料のにじみを止め、照明が点った時に明るく見える効果があります。
 鏡絵部分には葛飾北斎や歌川国芳の流れを汲むタッチで三国志や水滸伝、日本の戦国ものを題材とした奮戦図、見送り絵には主に女性の立ち姿、袖絵には竜と虎が相対している図等が描かれます。中には鏡絵の題材に関連させて見送り絵と袖絵を描く方もいます。
 弘前にはたくさんのねぷた絵師さんがいらっしゃり、当然皆さん画風が違っていて、お気に入りのねぷた絵を探すことが弘前ねぷたを観賞する上での楽しみのひとつでもあります。
 実はこのねぷた絵が青森ねぶたとの大きな違いになっています。

 絢爛豪華な青森ねぶたと違って、弘前ねぷたには血しぶきや生首、さらし首、幽霊といった題材が描かれるのが特徴です。明治期の扇ねぷたの鏡絵には血を滴らせた大きな生首だけの絵がドンと描かれているものもあったそうです。
 絵の中で展開される妖しさとおどろおどろしさ、殺伐とした血なまぐさい残酷美の世界が弘前ねぷたの大切な魅力のひとつだと私は思います。私は子供のころからこういった絵を見てきたせいもあり、ある程度残酷に対する耐性ができてしまいました(笑)

 画像を見ていてたぶん皆さん疑問に思われることでしょう。「弘前ねぷたの絵はどうしてこういう絵柄なの?」と。
 これについて私は弘前ねぷたの歴史が関わっていると考えています。
 昔の人たちはねぷたで喧嘩をするんですよ。といっても灯籠をぶつけ合うわけではなくて人間同士の激突。つまりつぶて打ち、木刀での殴り合い、竹槍(!)での刺し合い、真剣(!?)での斬り合い、果ては爆弾を投げたりしています(笑)。
 これを「ねぷた喧嘩」と言います。
 藩政期の御国日記には石つぶてを食らわせたとか、木刀で殴ったとか、腕首を斬り落とされたとか書かれているし、明治期には士族たちによる町道場同士(当時は町道場がねぷたを出していたりしたんですね)での争いが激化し、ある道場が敵対する道場のねぷたを待ち伏せて襲撃したりする事件が起きています。
 沿道の観客たちが怪我をするのも珍しいことではなく、喧嘩が起こるとほとんど市街戦の様相を呈するようになり、観客たちは開いている店舗などに慌てて避難したりしました。なかには戦いの様子に興奮して観客の列から飛び出たうっかり者が敵だと間違われて真剣でざっくりやられるということも……。
 その後、町道場が一本化されることになり道場間の争いは無くなっていきましたが、大正期になると今度は上町(うわまち)組と下町(したまち)組に分かれて対立するようになりました(この二つの勢力は明治期の頃から対立はしていたんですが、激化するのは大正期に入ってからです。
 ほんと昔の人たちは血の気が多かったんですね(笑)。
 大正一一年には「半鐘事件」という事件が起きます。これは上・下町の戦闘の鎮圧に出動した警官隊に対して、両軍が「警官隊のやり方が悪い」と逆上し警察署に押し寄せ、これに対抗するため消防隊に援軍を頼もうとした警察が誤って火事の発生を告げる三点鐘を打ってしまったがために、市中大混乱に陥ってしまったという事件です。
 そんな「伝統的な」ねぷた喧嘩もしだいに市民から反感を買うようになり、昭和八年の大喧嘩を最後に終焉を迎えました。
 以上のように弘前ねぷたは非常に物騒な歴史的背景があります。だからねぷた絵に描かれるような血しぶきや生首(江戸時代には打ち首獄門の刑といって、刎ねた首を台に載せて三日二晩見せしめとする刑罰がありました)といったものは、当時の人々たちからしてみれば別におどろおどろしいものではなく日常の風景、当たり前のリアリズムだったと思われます(北斎や国芳の絵の中に登場する残酷描写も同様の理由かと思われます)。
 こういった歴史を意識的にせよ無意識的にせよ、絵に反映させる形で最も色濃く受け継いでいるのが現在の弘前ねぷただと私は思っています。

 こんな微笑ましい絵も^^

 ここに描かれているのは「弘前さくらまつり」の公式応援キャラクター「桜ミク」。今年、弘前ねぷたまつりでコラボしました。

 当初は日記を書こうとは思っていなかったので、どうしても自分の好きな絵師さんの写真に偏ってしまいました。もっと色々と写真を撮っておけばよかったと後悔しています(ついでに言っておくと端っこが切れてたり……。来年はもっとうまく写真撮れるようになりたいな)。

 最後にアップした一部のねぷた絵の題材についての解説を。

・祝融夫人

 三国志演義の蜀の南蛮征伐に登場する南蛮王・孟獲の妻。飛剣の達人であり、それをもって多くの蜀の将を擒にした。
 三国志のゲームをプレイする方々にはお馴染みの祝融ですが。ねぷた絵では昔から人気のある題材です。このねぷた絵に描かれている祝融は「絵本通俗三国志 第十巻」の葛飾戴斗による登場人物を全身図で紹介するページの絵が元になっています。
 この構図は人気があり、多くのねぷた絵師によって描かれています。またこのように人物をそれぞれ三角形の頂点に配置する構図は弘前のねぷた絵の基本になっています。

・侍婢妖怪

 中国の三国時代。呉の大将軍――諸葛恪は焦っていた。先の合肥にて行われた魏との戦で大敗を喫しただけでなく退却する途中で多くの病死者、捕虜を出したからだ。国内には怨嗟の声が上がり、不安に思った恪は身の回りを自分の息のかかった人材で固めた。挙句の果てには精神を病み、幻覚を見たりする始末。そんなある日、水で口をすすいでみるとその水が血生臭い臭気を漂わせていることに気づく。恪は侍婢(貴人に仕える女性)を叱って水を換えさせるが臭いは一向に消える気配が無い。怒った恪は侍婢を斬り捨てる。
 「こいつもうダメだ……」
 と思った孫氏の一族の孫峻は呉主孫亮と計画を練り、二五三年に酒宴の席で恪を斬殺。その頃、寝室で目覚めた恪の妻のもとに身を血で汚した侍婢がひとり外からやってくる。「誰か?」と問うと、侍婢は目を怒らせ、牙を覗かせて宙に高く躍ると「われすなわち諸葛恪なり。今日奸賊孫峻に出し抜かれて殺されたり」と叫んだ。その直後屋敷に兵たちが雪崩れ込み、恪の一族は捕らえられ全員、斬罪に処された。
 「諸葛」という苗字でわかるように諸葛恪は蜀の丞相諸葛亮の甥。若い頃から知恵が働き、孫権の太子をやりこめた話は有名。
 二二二年に孫権が呉王となると恪は軍糧を司る職務に任用されそうになりますが、諸葛亮は陸遜に「あいつは大雑把な性格だから、そんな要職に就かせない方がいいよ」(要約)と手紙を送っています。
 また彼の父諸葛瑾(諸葛亮の兄)は彼の才気走る様子を見て、「この家をもっとも盛んにするのもこの子なら、この家を根絶やしするのもこの子だろう……」と心配していたといいます。
 なお、この諸葛恪処断の一件以降呉の内政はガタガタになっていくことになります。
 実はこの妖怪、出てくる経緯がいままでわからなかったんですが、この日記を執筆するにあたって「絵本通俗三国志 第十一巻」を読み返して納得。初めて読んだ当時は小さく文章の読み方がわかりませんでした。
 ちなみに元になった絵の方は首を持っていません。だからこの絵の場合、侍婢の亡霊が掴んでいる首が諸葛恪だと思われます。むしろこっちの方が物語的には筋が通っているような気がしないでもないですね。
 この絵のように、ねぷた絵は独自の解釈を加えて元の絵をアレンジしたりします。

・「花和尚」魯智深

 中国の三大奇書(三国志演義・水滸伝・西遊記)のひとつ「水滸伝」は、一〇八の星の生まれ変わりである好漢たちが梁山泊と呼ばれる山塞に集い、腐敗した政治やそれによって跋扈する悪辣な役人たち相手にそれぞれの技能を活かして立ち向かっていく話。
 「花和尚」魯智深はその一〇八星の好漢の一人。天孤星の生まれ変わり。一〇八星の豪傑たちは皆あだ名(FF14でいうところの称号)を持っており、「花和尚」のあだ名は背中一面に花の刺青をしていることから。
 魯智深は元々は魯達という名の武官で優れた武術と義侠心の持ち主。ある時、あくどい金持ちから貧しい父娘を救おうと義憤に駆られた末に、力余って金持ちを殴り殺してしまったことから追われる身になる。追われる旅の途中で、救った父娘に再会した魯達は娘婿の取りなしで五台山にある文殊院の僧侶に身をやつすこととなる。
 出家して長老から智深という法名を与えられるが、寺での生活は戒律だらけ。がんじがらめの生活に我慢できなくった魯智深はとうとう街に酒を飲みに出かける。
 街外れの居酒屋でとうとう酒にありついた魯智深はぐでんぐでんに酔っ払い、その状態のまま寺に帰ることになる。途中、山の中腹にある亭(あずまや)を破壊し寺の門までやってきたが、門は魯智深を入れまいと固く閉ざされて開かない。
 その時、門の側に金剛力士像があることに気づいた魯智深は、その目つきが自分を威かそうとしていると思い込み、柵の棒を引き抜いて破壊する。
 このねぷた絵はその場面を描いたものです。持っている得物は金棒になってますが、これは浮世絵師月岡芳年の手による同じ場面を違う構図で描いた絵に、金棒を持った魯智深がいるためです。恐らくこのねぷた絵はその絵からインスピレーションを得て描かれたものと思われます。
 魯智深は数多くの豪傑が登場する水滸伝の中でも一・二を争う人気を持つキャラクター。水滸伝にはカテゴライズすると「アウトロー豪傑」、「軍人豪傑」、「水軍豪傑」、「女性豪傑」、「職人豪傑」、「スペシャリスト豪傑」が出てくるのですが、魯智深は「アウトロー豪傑」に属します。
 もちろんねぷた絵でも人気があり、多くのねぷた絵師によってその奮戦図が描かれています。

・「九紋龍」史進

 「水滸伝」に登場する一〇八星の好漢の一人。天微星の生まれ変わり。あだ名の「九紋竜」は身体中に九匹の青竜の刺青をしていることから。
 ねぷた絵で最も描かれる豪傑である史進は水滸伝で一番最初に出てくる――つまりトップバッター。歳は一八~一九、イケメン、棒術の達人、家は金持ち……、これだけの要素をもっているのだからさぞ大活躍するかと思いきや、再登場するのはかなり後になってからで、しかも梁山泊に合流してからはあまり目立たなくなってしまいます。もっともこれは史進だけではなく他の人気のある豪傑もそうですが……。
  
・「玉麒麟」盧俊儀

 「水滸伝」に登場する一〇八星の好漢の一人。天罡星の生まれ変わり。あだ名の「玉麒麟」の麒麟は蛮神の馬マウントを集めて手に入ることでお馴染みですね。「玉」には「美しい、すぐれた、立派な」という意味があるから、「立派な麒麟」という意味になるのかな……? 梁山泊のナンバー2。
 梁山泊の総頭領は宋江という豪傑なのですが、この人がその座に着く前は晁蓋という人物が総頭領でした。ところがある勢力との戦いでこの晁蓋が戦死してしまいます。宋江は他の豪傑たちから総頭領の座に就くように薦められるのですが、
「いや、私のようなものに総頭領など務まりません。マジ無理……」
 と固辞して受け付けません。それでも総頭領がいないと困るので宋江は、この座にふさわしいという人物が来るまでならという理由で仮の総頭領になります。
 そんなある日、ある僧侶から「北京には河北の傑物と呼ばれる盧俊義という人がいる」と聞かされた宋江は彼こそ総頭領の座にふさわしいと考え勧誘に乗り出します。
 ちなみに盧俊義という人は梁山泊に入る前は北京で大質屋を営んでいました。梁山泊側の事情で勧誘されるという結構ひどい話だったりします。魯智深のところで水滸伝を「腐敗した政治やそれによって跋扈する悪辣な役人たち相手にそれぞれの技能を活かして立ち向かっていく話」と書きましたが、実は梁山泊側もけっこうひどい理由で一部の豪傑を無理矢理入山させています。興味のある方は水滸伝関連の書籍をお読みください(北方謙三さんの小説ではなく原本の方を(笑))
 このねぷた絵は盧俊義が梁山泊側の計略に引っ掛かって梁山泊を通った時に、豪傑たちと代わる代わる戦った場面ですね。中央にいるのが盧俊義。絵のモデルになったのは歌川国芳が描いた「通俗水滸伝豪傑百八人之一個・玉麒麟盧俊義」……というか、この日記を書くために盧俊儀で検索したら出てきた(笑) 左側にいるのは魯智深ですね。
 ちなみにネットのウィキや水滸伝関係の記事を見ると盧俊儀についてはかなり辛口なことが書かれてありますが、果たして真相や如何に……。
 
・「霹靂火」秦明

 「水滸伝」に登場する一〇八星の好漢の一人。天猛星の生まれ変わり。あだ名の「霹靂火」とは雷、稲光のこと。気が短く、声が雷のように大きかったのでこう呼ばれた。
 梁山泊でのポジションは猪突猛進型軍人豪傑。つまり脳筋……。
 愛用の武器は狼牙棒と呼ばれる、柄の先端に取り付けられた紡錐形の柄頭に無数の棘を纏わせた武器。鎧の上からでも致命傷を負わせることができるだけでなく、この棘部分で怪我をすると傷が治りにくいという追加効果も併せ持つ物騒極まりない武器です。
 軍人豪傑のため戦争になると活躍するけど、それ以外では描写が少ないという可哀相な豪傑だったりします(これは他の軍人豪傑にも言えるけど……)。横山光輝が描いた漫画の水滸伝には登場せず、しかもそのポジションを部下に取られるという屈辱を味わっていたりします……。
 ちなみに写真を見るとねぷたの上に人が乗っていますが、彼らは運行中にねぷたが電線や信号機に引っかからないように折り返し部分を折る役目を担っています。

・戸隠山の鬼女

 能の一曲「紅葉狩」に登場する鬼女。平維茂が信濃の戸隠山に狩猟に出かけたところ、美女たちが紅葉を観賞する酒宴を開いている場に出くわします。酒をすすめられ酔い潰れる維茂ですが、夢の中に山の神が現れ目を覚まします。正体を現した鬼女に立ち向かう維茂は山の神の助力で何とか討ち果たすことができました。
 ねぷた絵の日本を題材にしたものの中には鬼を描いたものがあります。この戸隠山の鬼女は大江山の酒天童子、羅生門の鬼と並んで人気のある題材です。
 このねぷた絵の元になっているのは恐らく月岡芳年の「戸隠の青嵐」。鬼の顔や角、手などにその影響が見られます。

・津軽為信

 津軽藩の藩祖。大男で髭もじゃであったことから「ひげ殿」と呼ばれていました。某歴史シミュレーションゲームをプレイしている人にとっては高い総合能力値と低い義理でお馴染みの東北指折りの武将。
 津軽為信の出自は諸説あってはっきりしない面もあるのですが、南部家の一族である久慈氏に生まれ、その後大浦城主大浦為則の養子になり大浦姓を名乗ったといわれます。
 元々は南部家の麾下でしたが、内紛で身動きが取れない南部家の隙を突き、一五七一年に南部家の津軽統治の拠点である石川城に夜襲をかけて城主の石川高信を自害に追い込みます。その後十数年間南部家と争いを続けながら、念願の津軽統一を果たした為信はかねてより誼を通じていた秀吉の小田原征伐にいちはやく参陣し、天下人のお墨付きをもらって所領を安堵され、南部家の反撃の封じ込みに成功します。
 秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いでは東軍に属し、美濃大垣城攻めに参加しています。
 地元弘前では津軽独立を成功させた英雄ですが、南部(岩手県)の側から見るとはお家騒動のドサクサに領地を掠め取った人でなしだったりします。
 英雄と梟雄。この二つの面が津軽為信の魅力だったりするんですがね……。
 津軽為信は地元の殿様ということもあり、ねぷた絵では日本の武将の中で最も描かれています。
 余談。よく勘違いされますが、「弘前さくらまつり」が開催される弘前公園内にある弘前城を築いたのは為信ではなく二代目藩主信枚です。

 ちなみに私の今年のお気に入りのねぷた絵は「祝融夫人」と「霹靂火 秦明」。


 少しは地元に貢献できたかな^^;? ではまた~。 
 
・参考文献
 「弘前ねぷた 津軽凧のすべて」――津軽錦絵作家協会
 「ねぷた祭り 明治・大正・昭和」――笹原茂朱 著
 「錦絵日本の歴史〈一〉 神々と義経の時代」――尾崎秀樹・加太こうじ・時野谷勝
 「絵本通俗三国志 第九巻」――文=湖南文山 挿絵=葛飾戴斗
 「絵本通俗三国志 第十巻」――文=湖南文山 挿絵=葛飾戴斗
 「絵本通俗三国志 第十一巻」――文=湖南文山 挿絵=葛飾戴斗
 「正史三國志 群雄銘銘傳」――坂口和澄・著
 「水滸伝 108星のプロフィール」――草野 巧 著
 「武器事典」――市川定春 著
 「魔法事典」――山北篤 監修
 「幻想世界の住人たちⅣ〈日本編〉」――多田克己著
 「信長の野望 烈風伝武将FILE」――シブサワ・コウ監修
 「信長の野望 天下創世武将FILE」――シブサワ・コウ監修
 「信長の野望 革新武将FILE」――コーエー出版部 監修
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