今日たまたまネットニュースを色々見ていると
仏教では自分を卑下することも慢心によるものだという事を知り
目から鱗だったのでつい日記に・・・
なんでも仏教では煩悩の一つに「慢」というものがあり、
その「慢」にも細かく「三慢」、「七慢」という考えがあり
「卑下慢」は七慢の一つだそうです。
(自分の解釈ですが)端的に言うと、自分を卑下する時には「何が正しいか」を自分で評価、
判断する自己があり、それって即ち「己は正しいことが分かっている」という驕りがある?
ということみたいで、自慢する人・高慢な人とは自分を上にするか下にするかという違いで
いずれも他人を評価し自己に固執する、という慢心があるという事らしいです。
そもそも仏教では自分に固執する=他人を比較したり軽んじる、という考え方とのことですが、
確かに言われてみると「自分はどうせ〇〇だから~」という言葉に対して相槌や同意を示すと
イラっとされる、するというのはまさに慢心によるのだなぁと気づかされました。
本当は否定して自分を持ち上げてもらいたい、自分はもっとすごいんだ、
そういう一種の自惚れがそうさせるのだと。
自分は恥ずかしい話、特に学生の頃は捻くれており、いじけることが多かったのですが
これは当時の自分は己を知らず幼稚ゆえに世間知らずで根拠無しに驕っていたのでしょう。
社会人になってからの方が自分の身の程を知り、自分が小さく感じることが増えたのですが
不思議と子どもの頃と比べて卑下することはなくなったように思います。
ちなみにこの「慢」ですが、元々は我慢もこの一つであったようです。意味は現在と異なり
「強い自我」という感じらしいです。「ワレがワレが」という身勝手な感じ?
でもっ別のお寺さんが我慢について説明されている記事に「でもその忍耐って自分の我慢に気づいているからこそ出来るのかもね」とあり、「たしかに忍耐と我慢ってちがうもかもなぁ、ただ苦難を耐え忍ぶのが忍耐なら、自分が本当は正しいと心の中でほくそ笑んで何かをこらえているのが我慢なのかも?」
とも思ったり・・・
だからこそ、我慢って煩悩に起因するから大体はどこかで破綻するのかもしれない、
慢心はいずれ自身を滅ぼすという事ですな(;'∀')
いずれにしても、ゲームでの自分を振り返ると、自分も気づいてないだけで「我慢」をしたり
日々煩悩にまみれていたりします・・・
でもかといってそういう弱いのも人間であるからだし、そうそう簡単に煩悩を捨てられたら
今頃現世は解脱者だらけになってしまいます。神域に解脱者24人アライアンスで挑戦したら
もはや神々の戦いです、某漫画もびっくりなラグナロクの始まりです。
だからこそ、みんな至らぬところがあることを認め、お互いを尊重して「個」を
大切にしていけたらいいなぁとか思ったりしました(´・ω・`)
「〇〇はいやだ」「◆◆はしんどい」とかあるかもしれませんが、
それを隠すのではなく「そういうのもあるよね」と合う合わないも
相手を見て、自分なりの言葉で語り、それを許容し合えるような関係・・・?
まぁとにかく、
みんな仲良く楽しくFFを遊びたいです(小並感)