これといった前触れもなく、薄闇の中でユルスは目を覚ました。
テルティウム駅に停まっている列車の中にはほとんど隙間なくマットが敷かれ、軍人とあらば老いも若きも入り混じって雑魚寝をしている。
音を立てぬように注意を払って身を起こし、誰かが拾ってきて壁に掛けた時計を読み取ろうと目を凝らした。灰色の闇に溶けた針が曖昧に示すところによれば、どうやらまだ明け方らしい。同僚たちの寝息の向こう、車両後方へと伸びる暗がりの先で青燐ストーブが青い光をぼんやりと放っていた。
そういえば寒さで起きることはなくなったなと思い返す。イルサバード派遣団からの支援を受け入れる前は冷え切った手足を温める術もなく、疲れに任せて眠りについても、一晩のうちに幾度も目を覚ましたものだった。
もうひと眠りするには頭が冴えすぎている。いっそ外の空気でも吸ってくるかと思い立ち、軍靴の傍らに並べておいた荷物袋を引き寄せた。気配を殺しながら、すみやかに身支度を調えていく。
と、近くで眠っていた同年代の兵卒プブリウスがおもむろに寝返りを打った。起こしてしまったのではないかと思わず動きを止めるが、しばらく待ってみても文句ひとつ上がらない。代わりに彼の寝息が聞こえてきて、ユルスは安堵しながら昨夜の出来事を振り返った。
駅の片隅に置かれたランプ。その周りを囲むようにして、数名の兵士たちと雑談に興じていた。各々が持つ質素なカップには蜂蜜を水で割ってスパイスと共に煮込んだものが注がれていて、湯気とともに懐かしい香りを立ち上らせている。配給の余り物で作ったというそれは駅を仮宿とするすべての人々に配られ、束の間の和やかな時間をもたらしていた。
何度目に会話が途切れたときだっただろうか、言葉少なに同僚たちの話を聞いていたプブリウスが、緊張した面持ちでカップを強く握りながらこう言ったのだ。
「俺さ、シャーレアンに行こうと思う」
ユルスもほかの兵士たちも、すぐには返事ができなかった。ただしその驚きは「ついにきたか」といった類のもので、恐らく全員が予感できていたのではないかと思う。
テロフォロイが去り、終末の脅威もやり過ごしたガレマルドだったが、復興の進みは遅かった。政治の担い手たる皇族や元老院議員が一遍にいなくなってしまったことに加え、周辺諸国もガレマール帝国への対応には慎重を期し、いまだ大方針を決めかねている。暫定政権樹立の必要性は提唱されており、実際そこに向けた動きもあるものの、一気にそれを成し遂げるだけの勢いは内外どちらにも足りていないのが現状だった。
行政機能を維持できている属州の指導者たちも、しばし様子見が賢明と判断したのだろう。同胞の合流は歓迎するとしつつ、帝国そのものの再建に進んで名乗りを上げることはなかった。おかげで「あそこは混乱に乗じて別の国として独立するつもりなんだ」「あっちだってそうさ、前から何かと勝手をしてたからな」と、恨み節の噂がユルスの周囲でもよく飛び交っている。
そうなれば、ガレマルドでは当面まともな生活は送れまいと思われるのも道理だ。承知の上で帰還してくる者がいる一方で、精神汚染の治療を受けるために他国へ運ばれ、完治したあとも当地に残留を希望する者が少なくなかった。さらにはシャーレアンなども帝国民の移住を積極的に受け入れる姿勢を見せている。そこに人生の再建を賭けたのはプブリウスだけではなかったということだ。
彼の決断を聞いた兵士たちは、理由を問うでも説得するでもなく、押し黙るしかなかった。それが何より雄弁な返答だった。プブリウス自身も弁解を積み重ねたりはせず、ただ視線をカップの中に落としていた。
「……明日、アルフィノとアリゼーに相談するといい。
あいつらなら、頼れる先を紹介してくれるはずだ」
小さな責任感からユルスが沈黙を破る。今なお復興に協力してくれているお人よしの双子は、所用で明日の朝までキャンプ・ブロークングラスに滞在していた。
プブリウスが表情を緩め「そうするよ」と言うと、重苦しい緊張がやっと解けていく。兵士たちは口々に彼の門出を激励し、再会を誓った。そして冷めかけたカップを掲げ「故郷の大地と同胞に」というお決まりの文句で乾杯したのだった。
駅から地上へ続くスロープを上っていく。四角にくり抜かれた出口が淡くおぼろげな光を纏い、近づくほど冷たさを増す空気が寝起きの熱っぽい頬を撫でた。
いざ外へと踏み出せば、そこにはただ現実が広がっている。
まだ明けきらない薄色の空を覆う禍々しい影は、天を掴もうとするかのように聳えた巨大建造物「バブイルの塔」だ。かつて魔導城だったその場所に向かって、むき出しの家屋の骨組みや瓦礫の山が連なっていた。市街地の中央に建てられた二連の塔――ソル帝が治世の初めに造った「新宮殿」までも、片側を残して無惨に崩れ去っている。
テルティウム駅の近辺は建物こそ原形を留めていたものの、そこにいるべき人々がひとりたりとも存在していなかった。寒さに肩をすくめながら朝の勤めに向かう者、夜番を終えて帰路につく者、家の前の雪を除ける使用人たち、犬を連れて散歩する者、誰より早く登校しようとする勤勉な学生……誰も彼もが数ヶ月前までここにいたのに、別れも告げず去ってしまったのだ。永遠に。
ユルスは深呼吸をする。凛とした空気が内側にも行き渡り、すみずみまで覚めていく心地がした。それでも眼前の悪夢にも勝る現実は醒めてくれてない。善や悪、理屈や展望が運命を紡ぐのだと信じていた人々を顧みることなく、泰然とそこに横たわっていた。
そんな理不尽はとっくに飲み下したはずなのに、またも戦友との別れが決まった後だからだろうか、今朝はかさぶたが剥がれたかのように虚しさが滲む。見回りでもしようと自身に言い聞かせ、ユルスはあてもなく無人の街に繰り出した。
どこまでいっても鈍色の廃墟が続く。
獣たちもこの時間は市街地にいないのか、明け方の街路は静寂に包まれていた。ふと視界の端に動くものを見つけて、ユルスはそちらへと歩み寄る。道路脇の瓦礫に挟まれてはためいていたのは千切れた古新聞だった。どこかの家にあったものが飛んできたのかもしれない。さらに破れてしまわないよう注意しながら引き抜いて広げてみる。
「ああ、あのときの……」
見覚えのある紙面に、思わず独り言が漏れた。
それは数年前の建国記念式典にあわせて刊行された号外だった。
例年、短い夏が始まるころに、ガレマルドでは建国記念日を祝う盛大な式典が催されていた。帝国の発展を祝し、そこに貢献してきたすべての人を讃える日とあらば、帝都市民はほとんど総出でお祭り騒ぎをしたものだ。街のあちこちに出店が立って、食事や飲み物、農耕をしていたころからの伝統的な飾りや、最新鋭の魔導仕掛けの玩具までもがずらりと並ぶ。陽気に軍歌を合唱する一団がいると思えば、過去の厳しい暮らしや戦いの記憶をしみじみと語り合う老人たちもいた。
そして皆が最も楽しみにしていたのが、ガレマール帝国軍の行進だった。都を縦断し魔導城へと至る中央道路を、数えきれないほどの兵士や魔導兵器が足並みを揃えて進んでいくのだ。一糸乱れぬその様は、見ている者すべてに興奮と畏敬の念、そして誇りを抱かせた。
兵士たちの行く手には、城のバルコニーから見物している皇族たちがいる。ガレマールを強く豊かな国に導いた者たちが一堂に会する光景を前にして、観衆は誰しも歴史という流れの中に自身が存在しているのだと実感した。その瞬間において、ガレアンという血の繋がりはいかなる国も種族も破ることのできない最も強固な鎖であり、世界の心臓は間違いなく帝都だったのだ。皆が顔を上げ、心から「栄光あれ!」と叫び続けていた。
ユルスが拾った新聞は、彼がまだ学生だった時分――晩年体調を崩しがちだったソル帝が、結果的に最後の式典参加をした年のものだった。式典の賑わいやスピーチの概略を記していたと思しき本文は千切れてしまっているが、併せて掲載されていた皇帝一家の肖像がかろうじて残っている。
肖像の中央では偉大なる初代皇帝ソルが厳かにこちらを見据えていた。老いてなお威厳は衰えていないものの、その表情は猛々しいというよりもどこか物悲しげに感じられる。ユルスは彼の笑った顔を見たことがなかった。
その右隣には、ソル帝の次男ティトゥスと奥方のアレキナ、ふたりの子であるネルウァが並んでいる。父子はいずれも神経質そうな顔立ちをしていて、書物で見た若かりし日のソル帝と印象が似ていた。
一方左隣にはソル帝の孫、亡き長男ルキウスの忘れ形見であるヴァリスが立っている。父親譲りだという体格はガレアン人としても稀有なほどに大柄で、功績と風格のいずれにおいても大将軍にふさわしいと当時も称賛されていた。良き理解者であったという奥方のカロサを早くに亡くしたため、傍らには母であるヒュパティアが連れ添っている。彼女はこの翌年、病によって夫の元へと旅立ってしまった。ティトゥスと跡目争いを続けるヴァリスを、死の直前まで励ましていたという。
そしてもうひとり、一番端で退屈そうにどこか遠くを見ている青年――ゼノス・イェー・ガルヴァス。その姿を見ても雪原で対峙したときほどの憎悪は湧き起こらなかったが、思い出に漂っていた心が急速に現実へと引き戻された。
ユルスは今、薄汚れた新聞の切れ端を手にし、廃墟の中に佇んでいる。あの日の熱狂の行き着く先がこんなにも侘しいと、誰が想像できたことだろう。仮にすべての瓦礫を片し、再び建国記念式典を催すことになっても、まったく同じ興奮は戻ってこない気がした。
ひとつの時代が終わったのだ。否応なしに次の時代へと送り込まれた自分たちは、何を頼りに生きればいいのだろう。
ユルスはしばし思案したのち、新聞の埃をはらって丁寧に折りたたむと、そっと懐に仕舞ってその場を後にした。
それからまた静まり返った街を歩いた。
風もなく、自身の軍靴が砂礫を踏みしめる音だけが辺りに響く。
途中、見回りとしての務めを果たすべく、形を残している家々の中を窺いもした。どこも利用できる物資はとっくに持ち出され、使いようのない日用品だけが転がっている。度重なる破壊によって飛び散らかったまま煤と土埃に埋もれ、拾う者はいないようだった。
やがて一軒の廃屋に辿りつく。屋根が抜け、壁も大きく崩れ落ちていて、建物と呼べるのかどうかも怪しい有様だ。そういえばここを詳しく調べたことはなかったと思い、入口を半ば塞いでいる瓦礫を慎重に乗り越えて中へと進入した。
そして、驚き息をのむ。
そこに帝国軍の兵士が横たわっていた。
多くの死を見てきた今、彼も事切れていると一目で理解する。
ユルスはゆっくりと遺体に近づくと、傍らに膝をついて様子を確認した。
厳しい寒さから腐敗はあまり進んでいなかったが、ずいぶん前に亡くなった者のようだ。内戦中の戦死者であれば遺体が引き上げられているはずなので、テンパードとなった者か、あるいはそれと抗戦を続けていた者だろう。切創のほかに強く引っ掻かれた痕や噛まれた痕があったことから、後者に違いないとユルスは判断した――テンパードと化した自身の家族もそんな風に襲い掛かってきたからだ。注意しながら兜を外してみる。顔に見覚えはなく、第I軍団以外に所属する下級兵のようだった。彼もまた数奇な巡り合わせから精神汚染を免れ、生き抜くために戦い、ついにここで力尽きたのだろう。
外した兜を彼の傍らに置き、黙祷を捧げる。エオルゼアの人々のように神に祈るのではなく、死者に安らかな眠りが訪れんことを願い、先祖たちとともに同胞の行く末を見守ってほしいと願うのだ。
ただ、今日はそれも無性に虚しかった。
アルフィノとアリゼーによれば、暁の血盟は魂が流れ着く星海にまで行ったらしい。そこでは魂が新生に向けて記憶を洗い、傷を癒やしているのだという。それが生と死の真実なのであれば、信奉する神への祈りも、ユルスたちの願いも、まったく介在する余地がない。生きているうちに成し遂げたことが――あの建国記念式典のように――やがて意味を失い、死も再誕を果たすためのシステムでしかないのならば、わざわざ生きて死ぬ意味はどこにある……?
またも心が頼るものをなくした気がして、ユルスは視線を落とした。
とはいえ、遺体の傍らで考えるべき内容でもない。生憎なんの道具もないので埋葬は改めて行うとして、せめて名前だけでも把握できないかと彼が身に着けているものを確かめていった。乱闘の最中でなくしてしまったのか、規定の認識票は所持していないようだ。装備も汎用の支給品で、手がかりになるようなものは見つけられなかった。
代わりに、拳の内側に何かが握り込まれていることに気づく。
「これは……認証鍵のケースだな」
魔導アーマーを操作する際に使用する認証鍵。彼はそのケースを握りしめていた。
肝心の鍵そのものがないところを見ると、本体に挿したまま逃げてきたか、死後に別人が持っていったか、あるいは――
「誰かに託した……?」
同胞を逃がすためだったのか、救援を呼んできてもらうためだったのか、目的まではわからない。しかし空のケースを固く握りしめている様はまるで願いを込めているかのようで、ほかのどの予想よりも腑に落ちた。
ふと……急に目覚めたときと同じ感覚で、忘れかけていたひとつの記憶と繋がった。
あの新聞が出た夏の初め、学友が深く感じ入った様子で詩集を薦めてきたことがあったのだ。付き合いで一読したものの、詩というものにまるで興味がなかったユルスには、何が面白いのかさっぱりわからなかった。
ただ、理解しきれずとも印象に残った言葉はあったのだ。
――死は、最後に贈る愛である。
生きていくために必要なもの、自分が生きて経験するはずだったことを、あなたに、誰かに明け渡すということ。それが死なのだと詩は語っていた。
魔導アーマーの認証鍵を託した彼もそうだったのだろうか。この手に掛けるしかなかった家族や、自ら命を絶ったクイントゥス、救えなかった戦友たち、別れも告げずに去っていったすべての同胞が、死とともに愛を遺してくれたというのだろうか。
死者たちは答えを返してくれない。
それでも、傷口から溢れていた虚しさは止まった。
「そのとおりなら、どんなに時代が変わっていったって、
生きて死ぬことは無意味にならないはずだ。
……俺も、死ぬまで生きてみるか」
言葉を掛けても遺体は沈黙を貫いたまま。
静寂の内に、抜け落ちた天井から光が差し込んだ。つられて見上げれば、空はずいぶんと鮮やかさを増している。そろそろ駅で眠っている仲間たちも起きてくる頃合いだろう。
ユルスはもう一度、短く黙祷を捧げて立ち上がった。
廃屋をあとにして朝に染まる街を歩いていく。
引き返すことなく、ただ前へと向かって。