The Lodestone

紅蓮秘話

「一夜に咲いた艶花」


ガレマール帝国属州ドマ――
この地で遊女を生業とする女ヨツユは、時のドマ総督による命を受け、ある料亭の座敷で、「標的」に酒をついでいた。

(まったく、面倒な任務を受けちまったものだよ……。
 戦いしか能のない男なんて、簡単に落とせると踏んでいたんだがね)

かすかな苛立ちを押さえ込み、心中で嘆息する。
一夜のうちに相手を骨抜きにし、情報をひきだし、しかるべき相手に売る。
帝国の諜報員として、幾度となく繰り返してきた任務。
今宵も、そうした退屈な一夜になる……はずだった。

帝国軍、第XII軍団長ゼノス・イェー・ガルヴァス。
ドマ駐留軍の者を欠片も信用していないのだろう。座敷の中だというのに鎧を脱がず、長く美しい金髪をさらりと揺らしながら杯を傾けている。
無気力そうに虚空を見つめているが、瞳の奥にギラギラとした光を湛えているようにも見える。
まるで、誰かを待ち望んでいるように。


もともと、ヨツユは雇い主であるところのドマ駐留軍から、別の任務を命じられていた。
現在、駐留軍は、かつての国主カイエンを大将にドマ反乱軍が蜂起するのではと警戒を強めている。
そんな中、彼女にも、諜報のため反乱軍へ潜入せよとの任務が下ったのだ。
妓楼を訪れる帝国軍から仕入れたという体で、反乱軍に帝国側の状況を提供してやり、身を挺して情報を集めてくる憂国の士だと思わせる。
そうして取り入り、逆にドマ反乱軍の情報を、帝国に流す……。
生まれ故郷を裏切る行為にほかならないが、ヨツユには一片の罪悪感もなかった。

養父母や死別した夫から、絶え間ない暴力と辱めを受けてきた。
その光景を見かけた者たちも、誰も彼女に手を差し伸べてはくれなかった。
この国の人間など、彼女にとっては憎悪の対象でしかないのだ――

しかし、潜入任務を始めたばかりのある日、彼女は駐留軍の情報将校に呼び戻された。
帝国本国から、軍団長ゼノスがドマの視察に訪れるというのだ。
その名には聞き覚えがあった。

帝都では現在、床に臥せっているソル帝の跡目争いが激化している。
ソル帝の長男はすでに逝去していたため、次男である元老院首席ティトゥスと、長男の子である大将軍ヴァリスとの間で、次期皇位を巡る争いが水面下で行われているのだ。
そして、ゼノスは、軍部からの支持が厚いヴァリスの長子。文官出身でティトゥス派に属す現ドマ総督からすれば、対立派閥の重要人物ということになる。

そんな大物の相手を、一介の諜報員に任せるだなんて、あたしも偉くなったもんだ……と、ヨツユは情報将校に冷やかな笑みを送る。

「カイエンとドマ反乱軍による蜂起の芽を、いまだ潰せずにいる。
 ドマ総督の無能ぶりに目をつけられたかい。
 政敵に痛い腹を探られようとしているとは……ご苦労なことだね」

図星だったのだろう。情報将校は苦々しげに眉を潜める。

「ドマ統治に苦戦していることを、我が派閥への攻撃材料にされていることは百も承知。
 だが、これは好機でもある。
 ゼノスを籠絡し、逆にヴァリスの弱みを握ることが叶えば、
 今度は我らが優位に立てるのだ」

「何でもいいよ。やることはいつもと同じ……。
 一夜の夢を男に与え、すべてを刈り取り奪い尽くす。それだけさ」

かつて畜生のように扱われた己に、誰も彼も溺れさせよう。
睦言なぞいくら貰ってもうんざりするばかりだが、相手が無様に破滅していく様は、僅かながらも女の腹を満たすのだ……。


だが、ドマの地を踏んだゼノスの「無気力」に、出迎えたドマ総督も、料亭で待ち構えていたヨツユも、出鼻をくじかれた。
総督にもほとんど目をくれず、気だるげな態度を崩さない。
彼の来訪目的を、政敵による内情調査だと踏んでいたドマ総督は戸惑い、早々に世話役という名目でヨツユを残して去っていった。

夜もだいぶ更けてきたが、ゼノスは酔いが回った様子もなく酒を飲み続けている。
いっそ強引にしなだれかかり事を推し進めるかと考え始めた頃、ふとゼノスが口を開いた。

「ドマ……。ここは、いかな地だ……?」

急な問いかけに、口ごもる。
答えるのは簡単だ。生まれ故郷を罵倒する言葉なら、いくらでも出てくる。
しかし、上機嫌にさせ情報を引き出すべき標的に、そのような本音を語れるはずもない。
適当に誤魔化そうと考え、目を上げてハッとした。
先程までただ虚空を見つめていた瞳が、真っ直ぐにヨツユを見据えていたのだ。

「戯言も聞き飽きた。
 それより、どのような仕打ちを受ければ、ここまで濁った目の女が生まれるのか、話せ。
 酒の肴くらいにはなろう」

「……あら、ずいぶんとひどい物言いですこと。
 お酒の方は、ずいぶんと進んでおられるようですが?」

なんとか言葉を返すも、ゼノスは静かに見つめてくるだけ。
どうやら、取り繕った言葉に返事をするつもりは毛頭ないらしい。

その態度、物言いを、何故か不快には感じなかった。
ただ、ゼノスの瞳が発する強い光に惹きつけられていく。
ああ、こいつはもしや、とんでもない――間違いなく“勝ち馬”だ。

気がつけば、雨が降り出していた。
雨にかき消されたかすかな沈黙は、しかし、ヨツユとゼノスの間に、なにか薄暗い密約を結んだように思えた。

「多少なりともドマを知れば、すぐにわかりましょう……。
 今や、ヤンサは掃き溜めですよ」

ついに漏らした言葉に、ゼノスはようやく面白くなってきたと言わんばかりに杯をあおる。

「その濁り、やはり憎悪か。
 陳腐だが、これほどまで拗らせた女は初めて見た」

「陳腐なのは、ドマ人を名乗る連中の方……。
 古臭い因習と精神論に縛られて、それが自らの首を締めていることにも気づかない。
 制圧され、手足をもがれてもなお、忠義だの誇りだのにすがり、己が周りも見えぬまま」

一度口から流れ出た言葉は、止まりそうもない。
このまま一晩中でも呪言の如き憎悪を吐き出しつづけられそうだった……が、
言葉は不意に遮られた。
急にゼノスが、座敷の外へと視線を移し立ち上がったのだ。

「いつ来るかと思えば、雨に乗じるつもりだったか。
 ようやく見つけた退屈しのぎも、ここまでだな……」

いったい何を、と尋ねる間もなく、耳障りな音とともに座敷の窓が砕け散った。
それが銃撃によるものだと理解しかけたときには、すでに窓枠を乗り越え数名の男たちが侵入してきていた。

全身を黒で包んだ賊は、素早くゼノスを取り囲むと剣を構える。
思わずしゃがみこんだヨツユも、すぐに事態を飲み込んだ。
高位の皇族となれば、このドマにおいても命を狙う者も少なくもないだろう。
だが、忍びのような黒装束に身を包んではいても、剣も構えも帝国式となれば、偽装もお粗末と言わざるを得ない。

「あんたたち、あたしを囮に……!」

もとより女もろとも始末するつもりなのだろう。その叫びにも、賊は誰一人反応を示さない。

そんな危機的状況においても、ゼノスの顔は、退屈そうだった。
壁に立てかけた自身の剣を気にかけるでもなく、ただ呟く。

「軍団長ゼノス、遊女にうつつを抜かしているところを襲われ、死亡。
 自身の領内で皇族を殺されるという失態よりも、
 その醜聞がもたらす衝撃の強さを取ったようだな。
 暗殺の罪をドマの元国主にでもなすりつければ、
 反乱の芽を摘む口実にもなる、か……」

賊は、やはり答えない。
油断なく包囲を狭めていき、そして次の瞬間、いっせいに襲いかかった。

黒装束の男たちが群がり、鎧姿の巨体が覆い隠される。
無数の刃に刺し貫かれただろうと、ヨツユは彼の死を確信した。
……しかし、一瞬の後に倒れたのは、賊の方であった。
中央では、先程と同じように涼しい顔でゼノスが立っている。

いつの間にか、彼の手には賊が持っていた剣が握られていた。
刹那、真っ先に届く刃を見極め、奪い取ったのだろう。
そして、それをただ一太刀、振るったのだ。
死骸を見下ろし、ゼノスはため息を漏らす。

「謀反の噂が絶えぬ地ともなれば、
 多少は愉しめるかと期待していたのだが……。
 この程度の奇襲で、俺を屠れるなどと考える浅はかな男が総督とはな。
 やはりここにも獲物たり得る者はなし、か……」

そう呟くゼノスを呆然と眺めていると、頬に薄気味悪い温かさを感じた。
思わず拭うと、その手が紅色に染まっている。
賊の返り血を浴びていたのだろう、気づけば着物も悲惨な有様である。

「……笑う、か」

言葉に顔を上げると、ゼノスがこちらを見下ろしていた。
告げられ、初めて自分が笑みを浮かべていたことに気づく。
ヨツユが見てきた帝国軍人は、みな己の保身や弱者への弾圧にばかり精を出し、こうも圧倒的な「力」を有した者などいなかった。
この力がドマに向けば、この国を完膚なきまでに蹂躙し尽くすことが叶う……。

ヨツユの笑みを見て、「ふむ……」とゼノスは興味深げに目を細めた。
死骸を踏みつけ、朱に塗れた顔に唇を近づけ囁く。

「女……名は、なんと言う?」


その後、事件は大きく取り沙汰されることなく、彼女もドマ反乱軍相手の二重間諜という元の任務に戻っていった。
時は経ち、血にまみれた夜の衝撃も薄れてきた頃に、元国主カイエンによる反乱が勃発。
ドマ総督は反乱を抑えきれず、軍上層部はゼノス率いる第XII軍団の投入を決定した。
ゼノスは迅速に部隊を展開。
首魁カイエンとの一騎打ちを制し、またたく間に反乱を鎮圧してみせる。

町人地に凱旋する第XII軍団の隊列を見つめる人混みの中に、ひとりの遊女の姿があった。
ドマの民からの憎悪の視線を、表情一つ変えずに受け流し、兵の先頭に立って歩む男。
その行進のあとを追い、女が消えていったことに気づいた者は、誰もいなかった。

そして、数日後。
ゼノスの代理総督として、ドマ全土に向けひとりの女の名が発表された。
名は、ヨツユ。
豪奢な着物を身に纏い、彼女はドマ城から民を見下ろし、嗤う。
この地に巣食う屑どもを蹂躙し、搾取し、嬲り尽くす力を得られた喜悦に――