「蒼は夢に溶け消ゆ」

習慣とは、そう簡単には変えられないものだ。
かつて皇都イシュガルドにおいて最強の竜狩りと呼ばれた男、エスティニアン・ヴァーリノも、未だ抜けきらない習慣を抱えながらに生きている。
竜騎士の兜を置いて久しいというのに、暇さえあれば鍛錬に勤しんでしまうのだ。
幼い頃、七大天竜が一翼、ニーズヘッグに家族を皆殺しにされてからというもの、復讐を成し遂げる力を得ようと、彼は厳しい修行の日々を送ってきた。長じて師の下を離れてからも、自己鍛錬の習慣に変化はなし。自らに厳しくあらねば、決して強大な竜との戦いを生き残れはしなかっただろう。
とはいえ、新しくできた習慣もある。晩酌もそのひとつだ。
かつて、竜との戦いに人生を捧げていた頃の彼であれば、たとえ非番の日であっても――友人からの強引な誘いでもない限り――酒をあおることなど稀だった。
しかし、竜詩戦争の終結後に放浪の旅を続けたことで、多少は張り詰めた心も和らいできたらしい。非常時ならいざしらず、平穏な一日の締めくくりとしてならば、酒の一杯も悪くないと思えるようになっていた。
天の果てへの遠征から帰還した後、ラザハン太守ヴリトラの勧めでサベネア島に逗留していたエスティニアンは、この日も自己鍛錬に励んだ後、ひとり客室で酒盃を傾けていた。
酒の肴は、地元漁師から仕入れたイカの干物。その味は東方産に引けを取らないものだったが、盃に注いだのが当地名産の蒸留酒だったのが、よくなかったらしい。有能で知られるラザハンの錬金術師が醸造した酒は、あまりに効きすぎる。
たちまちに酔いが回り、心地よい疲れとともにエスティニアンは眠りへと堕ちていった。


浅い微睡みを抜けた先、深い夢の中で、男は竜と戦っていた。
己に向けて放たれた咆哮からは、憎しみと殺意が感じられる。邪竜ニーズヘッグの眼から力を引き出して戦う「蒼の竜騎士」は、竜が魔力を乗せて放つ咆哮から、そこに込められた想いを感じ取ることができるのだ。
牙を剥いて迫りくる竜を跳躍して躱すと、空中で身をひねり手にした槍に眼から引き出した魔力を乗せる。そして竜騎士は、流星のように輝きを帯びて降下した。
狙いは首の付根、頚椎の隙間。そこを穿てば、いかに強靭な竜であっても無事では済まない。衝撃とともに穂先が硬い鱗を突き破り、肉を裂いた。直後、槍に凝縮された魔力が爆ぜ、爆炎を上げつつ骨を砕く。
獲った、という感触があった。
竜は痛みの咆哮をあげると、大きく身を揺るがして竜騎士を振り落とそうともがいたが、その動きも長くは続かない。やがて竜の命は潰え、巨体は力なく倒れ込む。
だが、勝者となった竜騎士にも余力はなかった。
死した竜の背から飛び降りて一息ついたのも束の間、鋭い痛みが胸を奔り、思わず膝をつく。
彼には激痛の要因がわかっていた。力の源として利用してきた邪竜の眼だ。莫大な魔力とともにニーズヘッグの怨念が込められたそれは、「蒼の竜騎士」に絶大な力を与える反面、徐々に心身を蝕んでゆく。
このままいけば肉体を乗っ取られ、傀儡同然のいわば邪竜の影と化す。誰に教わったわけでもないが、直感が不吉な未来の訪れを告げていた。

「黙れ、ニーズヘッグ……!」

絞り出すように反意を口に出したことで痛みは弱まったが、影響のすべてを抑え込めたわけではない。発作の強さも頻度も日に日に増すばかり。どう考えても限界だった。

「そろそろ終わりにすべきときが、来たのかもしれんな……」

竜騎士は今しがた斃したばかりの竜の死骸にもたれかかり、少し休むだけだと自分に言い聞かせながら目を閉じた。


泥のような眠りから目覚めたとき、竜騎士はいずこかの屋内に運び込まれていた。硬い木張りの床に敷かれた獣皮の上に、横たえられていたようだ。
半身を起こして室内を見渡すと、いくつかのテーブルと椅子、そして長いカウンターが見えた。染み付いたワインと肉の匂いも鑑みれば、ここは酒場らしい。

「親父! 彼が……!」

若い女の声が聞こえると、荒々しく足音を響かせながら中年の男が走り込んできた。

「ハルドラス様!」

そう呼ばれて、エスティニアンは夢の中で自分が何者となっていたのかを認識した。
征竜将ハルドラス――父王トールダンと共に、七大天竜ラタトスクを討ったイシュガルド建国の英雄。そして、邪竜ニーズヘッグから双眸を奪い、これを自らの力として史上初めて「蒼の竜騎士」となった人物だ。
夢の中、彼はハルドラスとなっていた。
その状態を受け入れることで記憶がより鮮明になり、心配げに自分を覗き込む男の正体も理解できるようになってゆく。

「……オルニカール卿か?」

オルニカール・ド・コーディユロ――トールダン王に仕えた十二騎士のひとりにして、邪竜ニーズヘッグを退けた戦いの後、騎士の身分を返上して野に下った人物だ。

「もう卿と呼ばれる身分じゃありませんぜ、我が主。
 今やしがない酒場の親父でさぁ」

あれから二十余年、ハルドラスは故郷たるイシュガルドには戻らず、ただ独り竜と戦い続けてきた。だが、それでも食料その他を求めて辺境の集落に立ち寄ることはあり、かつての戦友についての噂を聞くことはあった。
オルニカールが、酒場の親父に転身したと知ったときには眼を丸くしたものだが、なるほど、ここが彼の店であったか。

「だとすれば、私とてもはや君の主君ではない。
 しかし、なぜ私はここに……」

するとオルニカールは、近くにいた年若い黒髪の女を示して言った。

「ベルトリーヌ……俺の娘でしてね。
 鍛錬の最中に、竜の死骸の側で倒れているハルドラス様を見つけたと……。
 こいつ、親の反対も聞かず神殿騎士になりたいとかで、槍なんぞを振るってやがるんで」

父の言葉を継いで、ベルトリーヌが緊張気味に続ける。

「ハルドラス様のことは、幼い頃より父から聞かされてきました。
 竜狩りを目指す私にとって、貴方は憧れの存在なのです」

熱っぽく語る彼女を見て胸が疼いたのは、瞳に宿る輝きが若かりし頃の自分たちに似ていたからだろう。それはとうに彼が失ってしまった光だ。

「その貴方が、気を失っておられて……すぐにでも神殿騎士団病院にと考えたのですが、
 うなされながらも父の名を口にしたもので、ここに運んだのです」

「力尽きかけた私を見つけたのが邪竜の眷属でなかったばかりか、
 かつての戦友の娘であったとは、なんたる幸運……」

しかし、ベルトリーヌの返答は幸運では片付けられないものだった。

「貴方を見つけられたのは、声のおかげです」

「私がうめき声でも上げたというのか?」

「いえ……なんと言えばよいのか。
 頭の中に響く荒々しい風のような……」

嗚呼、なんという運命なのか――ハルドラスは天を仰ぎ、この出会いを導いた戦神ハルオーネに感謝した。この父娘にならば、すべてを託すことができるだろう。
ハルドラスは、己の胸に手を当てて言った。

「ベルトリーヌ、君が聞いたのは、この眼が発する邪竜の意思だ……」

そこには、銀色の甲冑に食い込む異様な代物があった。竜の眼だ。邪竜ニーズヘッグからくり抜かれたそれが、胸甲と融合しながらも禍々しい輝きを放っていた。

「眼は、力を求める者に語りかける。
 精神を蝕み、心を支配して、自由を得るためにな……」

「やはり、いまからでも神殿騎士団病院に……!」

身を乗り出したベルトリーヌを手で制すると、ハルドラスは続ける。

「無駄だ……。
 すでに竜の眼は身体に癒着し、鎧を脱ぐことさえままならん。
 強き心で精神を支配されぬよう抗ってきたが、邪竜め、肉体を奪うことにしたらしい……。
 ほどなく私は、ニーズヘッグの怨念に操られた傀儡と化すだろう」

「そんな……」

ハルドラスは絶句するオルニカールを見つめると、静かに言葉を紡いだ。

「だから、友よ。我が命を終わらせてくれ……」

「冗談じゃねぇ! 俺に、アンタを殺れっていうのか?」

平民出身のオルニカールは、感情が高ぶると元より怪しい礼儀作法が完全に崩れ去る。その懐かしい様を見て、ハルドラスは思わず微笑みながらも懇願した。

「非情な願いと承知しているが、どうか重ねて頼む……。
 私がこのまま傀儡となれば、必ずや眼を邪竜のもとへと運ぶだろう。
 その結末は……語らずともわかるはずだ」

邪竜ニーズヘッグは双眸を奪われてなお未だ健在であり、イシュガルドの脅威となっている。それでも、先王トールダンに代わる新たな指導者、教皇の下で神殿騎士団が結成され、貴族たちと共闘することで、どうにか竜の侵攻を押し止めることができていた。
だが、ニーズヘッグが眼を奪還して往時の力を取り戻せば、戦局は一気に悪化することだろう。

「理屈はわかる。わかるけどよぉ……。
 アンタは俺が忠誠を誓った、ただひとりの男なんだぞ?」

「人は脆弱で取るに足らぬ存在であり、
 母なる星の守護者たるに相応しきは幻龍の子たる七大天竜のみ。
 それがニーズヘッグの真意だと知ったとき、我らは決めたはずだ」

ハルドラスは、言い聞かせるように続ける。

「人の世を守るため、蜜月関係にある竜を裏切り、天竜を屠ると……。
 一度、その罪に手を染めた以上は、戦いから降りることなどできん。
 いかに剣を置いて酒場の親父となろうとも、現に娘は槍に手を伸ばしているではないか」

奥歯を噛み締めうつむく父から、その娘へと視線を移す。

「竜狩りになりたいと言ったな?
 邪竜の声を聞いたという君ならば、眼を託すに相応しい。
 この眼から力を引き出す竜騎士となり、皇都イシュガルドを守ってくれ」

ベルトリーヌは目を見開いて、呆然とつぶやいた。

「私が竜騎士に……?」

「そうだ。
 皇都イシュガルドに捧げる正義の心ある限り、蒼の竜騎士は己を失うことはない。
 しかし、精神を保てても肉体は徐々に蝕まれる。
 危ういと感じたなら、私のようになる前に次代の竜騎士へと眼を託せ。
 竜の寿命は長い、戦いは末代まで続くと覚悟せよ……」

そこまで言ったところで、ふたたびハルドラスを発作が襲った。

「やれ、オルニカール……!
 かつて私に誓った忠誠が真であるならば……頼む……!」

胸を反らせて激痛に耐えるハルドラスの姿を見て、父娘はもはや迷い悩んでいる時間すら残されていないのだと悟る。
オルニカールは震える手でハルドラスの愛槍を手にすると、その穂先を主の胸に押し当てる。
だが、どうしても力を込めることができない。ならず者同然だった自分を取り立て、友として、騎士として導いてくれた恩人ハルドラスを殺すことが、どうしてできようか。
逡巡する父を見て、娘は共に槍の柄を握った。

「親父の罪を、私にも背負わせて……」

ふたりは顔を見合わせ、そして覚悟を決める。
ハルドラスは顔を歪めながらも、どうにか笑顔を作ろうと試みた。

「さらばだ、友よ。ありがとう、次代の竜騎士よ。
 いつの日か、竜との戦に終わりを……」

幾多の竜を屠ってきた槍が、その持ち主の心臓を貫いたとき、唐突に夢は幕を下ろした。


目覚めたエスティニアンは額を濡らしていた汗を拭うと、部屋の片隅に立てかけられていた己の槍を見た。ニーズヘッグ、仇の名を与えた魔槍だ。

「なんてものを見せやがるんだ……」

かつて彼は、ニーズヘッグの双眸を手にしたことで精神と肉体を侵食され、邪竜の影となったことがある。そのうち片方の眼は、朽ちぬ死体と化していたハルドラスの亡骸に埋め込まれていたものだ。
先程の夢は、その眼を介して与えられた先達の想いだったのか。
そこまで考えて首を振る。もはや、その疑問に答えられる者はいないのだ。
エスティニアンは立ち上がり、夜風に当たろうと窓を開けた。

「終わったよ。
 あんたの願いは、千年越しで叶ったんだ」

窓の外には、竜と人とが暮らす多彩なる都、ラザハンの夜景が美しく輝いていた。