拙者、Rith Griと申す。
この世界で「侍」というは、如何なるものか。
トームストーンなるモノを繰ると、何処のものとも知らぬ国々や世界からの様々な話が、山のように見える。
『暁の血盟』によらば、拙者どもには「壁を越える力」があるとの事……それが、巷でトームストーンを繰るらしき冒険者らにも同様、言葉の壁について、ある程度は問題としなくなる様子。
(それとも、コレを繰る他の者らが見るものの中味を拙者は知らぬから、皆のことも拙者どものよう問題にしていないよう思っているだけかも知れぬが……)
(一説には、とある超える力を備えし冒険者の経巡りし事を、全ての冒険者が共有している……との、何やら不可思議な論説あり……ならば、拙者の冒険は誰かの経巡りし現を、己のことのように追って見ている……とでもいうのでござろうか?……ふむ。拙者もエーテル酔いとやらが過ぎるまま思索を重ねておるようでござるが)
これらアラグの他、様々な片鱗を今にも遺す古代文明とやらにも興味は尽きない。
拙者どもの生きる世も、何時かの古代であるとして……果たして何を遺せるのやら。
さて「侍(SAMURAI)」とは、なんであったか?
曰く、遥か先達の武士(BUSHI)なりし者どもからは同義のものとして死ぬことと見つけたりしは、如何にして己の命を活かすのか……という「生き方」をこそ問う教え、または諭しだったかと覚ゆに留めるのでごさるが……
(いわゆる哲学……この『葉隠(HA-GAKURE)』なる遺訓は、より総合的な視野に立つことを啓蒙するため、捉えきれた広範より己の為すべき・進むべきを見定める気骨の働きを促す様子。
故に、例えば盆栽なるモノにて言い表さば、先々にあらざると見えた枝葉を落とすが如く……己に、時には他に、時には世に、真に生きて為すべきを悟らせ歩むための智慧と見受けるが……
それら先々に見える、なるほど盆栽のよう手をかけ時には愛でられもする姿その一つ一つが、また時には大いに磨き抜いた辣腕を振るうべく各々が参集するといった際、どう活かし活かされるのか……徒然、思い致すに留まる所。)
(役立たんとするが故に己の何かを殺す者
役目を果たしながらも譲れぬ己をも表す者
役割を見る間もなく勇んで世に飛躍する者
自らの命と信じ己を超えるべく立ち回る者
力能わず陣を退く者、敢えなく死せる者……
そして、再び立ち上がり喰い下がりして
何時しか勝利を掴む者。)
うむ。生き方を……と言うならば
この世界にて、つまるところ冒険者として己を戦いの場に繁く置く訳であるが……
どのように立ち回ればよいのか?という具体的問題を中心に据えて、拙者なりに落とし込んで思うことには
近頃、とみに思うことには
ナイト……いわゆる聖騎士(Paladin)の、戦いの場における「盾」としての役目を担うには、かつての聖騎士団長、もとい銀冑団前総長・ソルクザギル殿に見た、その相応しい巨躯。
それを見てしまうと、どうも上背だけとなる拙者には、向かぬのでは……と考えるようになった。
しかし、この世界には
折れぬ心・強き魂にて歩む正道の聖騎士らにも勿論、拙者より余程に細き者や小さき者など……性別をも問わず、体格の違いなど様々ある。
膂力を言えば、アウラ・レンたる身の上なればゼラよりも劣るとの話もあるが……拙者は剣を手にして心で負けたつもりは無い。
また、ララフェルらによる「盾」は、如何にも視界が開けており……小さきものからと侮りし魔物どもの総攻撃を一手に引き受ける姿には、自ずと助力せねばならぬ気にさせられる。
ただ、戦う相手が大きくなればなるほど、戦友が増えれば増えるほど、視界が退く故に、前衛では姿が埋もれがちになることが仇になる……場合も、無くも無いのかも知れぬと
(これも、助力に努める者どもの熟達した心の眼で捉えれば、訳もないのであろうが。)
しかし……戦いの最中ともなれば得難い勘処というものに、やはり適正は否めない。
これは最早、種族を問わず生来獲得あるいは各々が熟達によるもの。
種族ではない、体格ではない……更なる別の要素での向き不向きを考えざるを得ぬことには正直、根底的迷いとして拭い切れず
取り回しに不向きを覚えれば、無理に続ける事も無いのかも知れぬ……と。
“迷い”というモノにござるが……
己に、足りぬもの・劣るものを識った上で、選んだ道を歩み続ける気概は粘りを増すと信じる。
ここは一つ、気を入れて歩むべきかなと意を改す。
さて、「盾」の役割を担いし者の心得。
一、戦いの最中に「盾」が消えるようであってはならない。
一、戦いの支度を敷き参集を募っておきながら、待機時間切れ辞退などあってはならない。
この世界を歩む冒険者ならば、「盾」に限らず当たり前の事と存ずるが……誠に恥ずかしい、冗談みたいな話ではあるのだが……戦い続けられぬ状況の発生・その頻度あるいは間の悪さに祟られる事態が、どうも拙者、目立つようであるからには
反省を込めて、ここに訓戒を記すもの也。
さて、徒然ながらも思索を深めていくに
自身のみならず人には心の力を増すためにも、己の姿が相応である事により背中を押す効果があることは、やはり不思議と否めない。
(それが根底的な迷いを招いてもいる、という訳でござるが……)
ララフェル等の聖騎士といった趣きに曰く“ギャップ萌え”なる有様を、己や他を愉しむも一興ではあるのだが……
おそらくは、その事へ挑む冒険者らこそは主流なのでは?とも思えるが……
見た目を裏切らぬ。という要素は、基本的な安心感や安定感を……戦いの場に伴いし各々の心に、意識に、もたらすのかも知れぬ。
ならば、拙者の体躯からすれば上背からも手足の長さが活かされるのが道理と覚えるようになった。
剣の術と道にばかり気を取られていたが、おそらくは長さを活かす槍術の類にこそ、本来は向いているのやも知れぬ。
(グリダニアにてギルドを訪れてはいたが、これもまた何時かは究めておきたいと今は感じる。)
(拙者よりは細身となるものの、やはり上背に長けるエレゼンらの取り回しも参考になるやも知れぬ……といった気付きにもより。)
さて、今は自由騎士の道にあらば
前衛にて「盾」となるに入り用は
斬る(Slash)、打つ(Bash)、薙ぎ払う(mow down)、吹き飛ばす(beat)
庇う……壁の素養(Protective Sense)
この「壁の素養」には拙者、未だ難を覚える。
数値化には難しき、魂の問題に見るような向き不向き……の自覚、といった所か。
それが“根底的な迷い”という訳にござるが。
対し、前衛より距離を取れば、入り用となるのは……
勘(KAN:Intuition)と手数(Agility、Prompt)と、
的心を得る技術(Hitting)に加え、
やはり“時の運”さえモノにする、根性(Guts)……
そは己が魂を磨かば光るものの一つにござるとは、誰に訊いたか、己の悟りか。
さてしも、こうした思索は面白きものにて
大柄な拙者には難しいことのように思えるが、身を潜める事も想定したとして、双剣士のよう距離を詰め的心を穿つ技術……
しかし拙者、上背のせいで大振りとなり、まるで草芝居の大立ち回り。
とはいえ得物を両手にて扱う技術には、やはり興味が尽きない。
上背も幅も要らぬ弓術も、やがて詩吟の素養をも得られると知り、いずれは……となれば
もはや侍というより、武者(MUSHA)の有様も一興。
戦場(IKUSA-BA)の尽きぬこの世界では、どうまみえるのかは拙者自身、徒然ながらも推して知るべしと。
(何時しか各種得物を携え、大鳥などに騎乗し駆け抜けるは何処の戦場か……などと夢想も一興。)
かようにも独り徒然に思索を重ねれば
連綿と募る“根底的迷い”を超えて後……いずれ拙者の魂は如何様にして光るものかは、この世界を冒険者として歩む拙者の愉しみ……という所にござろう。
永遠の・終わりなき……とも、凡そ世に聴こえた何時かの冒険心も
この世界という器に活ければ、凡そこの姿にて躍れる悦びや、如何にも
……ふむ。
どうやら拙者、やはり此度はエーテル酔いが過ぎたようでござる。