―なぜ私は、計算可能な岩を捨て、予測不能な海へ向かうのか―
緒言
ギャザラーとして改めて立ち返るべき「採集とは何か」という根源的な問い。
本稿は、初心を振り返ると同時に、新たな試みに挑む採集専門の素材屋として、
採集とは何かを個人の経験と主観を交えた分析を書き記す。
採掘・園芸における「決定論的」採集
採掘師および園芸師の採集は、現代社会における「高度に管理された製造ライン」に近い。
・計画性-ET(エオルゼア時間)に基づいて出現する未知・伝説・刻限は、いわば定時運行の列車である。
・効率性-獲得力と技術力が閾値に達していれば、結果は約束されている。そこにあるのは「GP管理」という名の計算であり、イレギュラーの介在する余地はない。
「掘れば、そこにある」という約束。これは採集の基盤であり、確実な富を築くためのインフラ事業であると言える。
漁師における「確率論的」博打
一方で、漁師の活動はこれらと一線を画す。
竿を構えた瞬間、採集は複雑に絡み合った変数の海へと投げ出される。
・不確実性-十分なステータスを持っていても、魚は容赦なく針を振り払い、我々を突き放す。
・哲学的な待ち時間-天候条件が整うのを待つ数分間、あるいは数時間は、効率を重視する現代の光の戦士にとって「非生産的」に見えるかもしれない。
しかし、この「ままならなさ」こそが、漁師の醍醐味である。
採掘が、園芸が「既知の事象の回収」であるなら、釣りは「未知の可能性の投資」
計算通りの素材が100個積み上がったとしても決して得られない「最高の約束」が、そこには存在する。
結語
採集・製作の初等経験を完了した私がたどり着いた「採集とは何か」の結論。
それは「過程」にこそあった。
ヌシに竿を向け、その微かな振動を待つあの瞬間。
私は、自分が真になすべきことを理解した。
目に見えない物が、我々素材屋を奮い立たせる。