前置き
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄※暁月までのネタバレを多分に含んでいますのでメインクエストをクリアしていない方はご注意くださいあらためて新生からストーリー世界設定を追っていて疑問に思ったことを書いています
今回は前回の
ルイゾワはエオルゼアではなく第六星暦世界全体を救うために第七霊災を止めに行ったのではないかの続きの疑問になります
結論(疑問)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄結論から言うと
種全体の考えて行動できる古代人が終末を回避できず、利己的な現代人が終末を回避できたということから作家は何を伝えたかったのだろう詳細は以下の背景から
(疑問)背景
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄前回ルイゾワが超える力(古代人の記憶と能力)を持つものとしてエオルゼアだけではなく第六星暦世界全体を救ったと書きました
国という枠を超え世界を救うという個ではなく全体を優先する考え方は古代人の記憶というか意識が影響していると思っています
新生から一貫して国や部族を優先する人間や蛮族が繰り返し描かれていたと思います
上記の分かたれた人間たちと対比して漆黒や暁月では古代人の超個体とでも言うべき個よりも全を優先する考え方や意識が描かれていました(超個体に関してはネットや前回の日記を参照してください
感情というものは生存のために発生したものなので全能に近づけば近づくほどなくなっていく、利己的でなくなっていくというのは分かります
神様は感情がないという描かれ方をしている作品はいくつかありますね
FF14で描かれる古代人は一見未来の理想的な人類のようにも思えます
メーティオンが調査した星のトゥリア(イーア)とデカエプタ(ラーラー)も似たような文明でした
本題(疑問)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄古代人やデカエプタは利己的な現代人の問題を解決した理想的な人類のようにも思えます
しかし待っているものは終焉でした
それでは人間は第七星暦のままでいいのでしょうか
種全体の考えて行動できる古代人が終末を回避できず、利己的な現代人が終末を回避できたということから作家は何を伝えたかったのだろうここが今回の疑問です
分かたれた後に現れた人間がハイデリンの力を借りずに霊災を乗り越えてきたわけではありません
今まで世界を救ってきた十二賢者、ルイゾワ、ヒカセンは古代人の力(超える力)を得て世界を救ってきました
超える力なくしては利己的で全体を考えない人たちのままだったでしょう
また上辺だけ能力だけの超越者でも利己的なままだったでしょう
暁月では終末を退けたのはデュナミスの力でした
デュナミスとは「想いが動かす力」とのことでした
感情が大事だということですね
トゥリアのように途中で探究心を失ってはいけない
デカエプタのように生きる喜びを失ってはいけない
古代人のように楽園に固執してはいけない
ヴェーネスの名台詞のところですね
「命を捧げて命を生み、それを繰り返してもとに戻ろうだなんて到底、進歩とは言えません」
余談ですが松野さんも本当はFF12のオリジナルヴェーネスにオキューリアに対して近いセリフを言わせたかったのかもしれませんね
FF14のヴェーネスの話に戻して、ヴェーネスが伝えたかったのは「聞いて…感じて…考えて」 ということですね
「終わらぬ探求の旅を続けるのだ」
探究の旅を続けていれば現実世界の人間もいつかマルチバースを超えて創造主になれるかもしれません
誤解を恐れずに言えば社会主義(古代人)でもなく資本主義(現代人)でもなく、世界を救いながら真理を探究し続けられる仕組みが作れればいいですね
FF14も次の10年で宇宙創生の謎に迫って欲しいです
まとめ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄≪今回の疑問(再掲≫種全体の考えて行動できる古代人が終末を回避できず、利己的な現代人が終末を回避できたということから作家は何を伝えたかったのだろうご覧頂いた方で、「それ知ってるよ!」という方がおられましたらコメントいただければ幸いです
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