ロドストなんかだと顕著ですけど、ポジティブは可視化されてもネガティブは可視化されない。
わかりやすいのが「いいね」システムですよね。
「好意」「共感」「肯定」は数値化され、戦闘力となる一方で「違和感」「不快」「批評性」は沈黙を強いられる。
結果として「見える言葉」は共有可能な安心を提供し、
その裏で「見えない言葉」は存在ごと抹消される。
つまり、制度的に「陽のあたる言葉」が生き残りやすい温室のような空間が出来上がるわけです。
──ああ、やさしい世界。
この言葉に僅かな皮肉がこもってしまうのも私のSaGaと言うやつでしょうか。
んでも、ホントに僅かですよ?
私だってなぜそう言った構造が出来上がり、そもそもなぜ必要とされたのか、少しくらいは想像できるんですから。
それと同じように、構造上逃れられない問題点も私には見えると言うわけです。
だって、ただ“見えなくしてる”だけですからね?
“安全で優しい世界”なわけではなく、
“安全そうで優しそうに見せる世界”であることは留意せねばなりません。
どうしても、そうなってしまう。
そんなわけで、非常に慎重で臆病な私が、今日はネガティブを可視化してやろうというのです。
他人様のを暴露するなんてくコ:彡れたことは出来ませんので、私を素材とします。
が、私だって無闇に石を投げられたくはありませんからね?言葉はすごーく選びますよ。
たとえば、いくつか前の日記に、私は「注目の日記も読んでる」と書いたじゃありませんか?あれってつまり「読んでるけどいいねしてない」と言う、ある種のネガティブな選択が可視化されてるんですよね。(私の凄いところは沈黙さえ読んでみせるところである)
ここで短絡的に「ああ、じゃあこの人は嫌いなんだな」と、考えないで欲しいところなのですが……さすがにね?
そもそも「いいね」が私にとってどういう意味を持ち、なぜしなかったのか?を紐解かなければ理解できないはずですよね。
そう言った個々の事情や何かもあれど、ひとまずは私の場合、少なくとも「いいね」するほどではないかな……と思うことが多いです。
要するに「好きではないな」と。
いいですか?“好き”ではないだけですよ?
ここで宇宙規模に博愛主義者の誰かが「好きじゃないなんて……なんて酷いやつだ!」と、世界の善意を背負って雄叫びをあげてきたところで、「みんな大好き」という言葉を聞いて、瞬時に「私はそのみんなに含まれていない」ことに気づく私としては、
でも、それは風景として素材化された私であったり、或いは人間という語に回収される一般化なり抽象化された私であったりするわけですよね?となるわけです。
それに、この語りの構造上、ここで私に石を投げると言う行為が、私自身の主張をまさに立証してしまうのです。
私だってノーガードでリングに上ったりしませんよ。
……と、書いた所で(ああ、これがまさに“勝手にデスマッチリングを設置する”ということね)
いつか誰かに言われたことを思い出す。
ロドストを眺めてはそんなことを考えて「ふぅん」とボヤく今日この頃。課金キレそう